第7話 ドールオーナー 前編


 アリスのオーナーになってから4日。極めて『普通』っぽく、あまり目立つことのない隆志だが、日に日にクラスメートの注視を浴びるようになっていた。隣の席の美少女・舞に顔を向けたつもりの男子生徒も、目を丸くして隆志に視線を移動する。
 それもそのはず。日に日に憔悴していく隆志の顔と身体。寝不足で血走った目。その下にはくっきりと青黒い隈。そして小さく動き続ける口は、まるで呪文でも呟いているように見えて酷く不気味だった。

「そんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がない……」

「ね、ねえ、隆志」

「そんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がない……」

「隆志ってば」

「そんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がないそんな訳がな――」

「聞いてよ、もぉ!」

 と朝礼タイムに入る前の1年A組の教室の中、舞は隆志の言葉を声高に遮った。眉を吊り上げ、徐に振り返った隆志に問う。ここ2、3日、何度も何度も問うてきた。

「死にそうな顔して、どうかしたの!? あたしが相談に乗るって言ってるじゃん! 話してよ!」

 すると隆志は、首を横に振って同じような台詞ばかり返すのだ。

「駄目だよ、舞。今の僕に関わるな。僕のアパートにも絶対に来るな。危ない。きっと、危ないんだ」

「そればっかり!」

 と剥れて窓の外に顔を向けた舞。再び隆志が呪文でも唱えているように呟くのを聞きながら、声を低くして続けた。

「……アリスのオーナーになってからだね、隆志がおかしくなったの」

 隆志の呟きが止んだ。

「何か、アリスにおかしなことでもあったの?」

 そう問い掛けながら舞が再び振り返ると、机の上に置いてある隆志の両手が小刻みに震えていた。

「お…おかしいんだ、とても。お、おかしいんだ……」そう、やっと舞の問いに答え始めた声も震えている。「あの人形が来てから、お、おかしいんだ」

「おかしいって、どんな風に?」

「あ、朝起きると、朝食が出来てる。が、学校から帰ると、夕食が出来てる。へ、部屋の掃除も、洗濯も、してあるんだ。母さんは来てないって言うし、泥棒も入った形跡がないのに」

「ふーん。それで、アリスが動いてるとでも思ったの?」

「そ、そんな訳がない。そんな訳がない……って思いたいんだ。で、でも、アリスの白いドレスが日に日に汚れていくんだ。き、昨日は、トマトソースらしき赤い染みがスカートに付いてた。き、昨日の夕食は、ナポリタンスパゲッティ。リビングダイニングの椅子に座らせたままのはずなのに、お、おかしいだろう?」

「なるほど。それじゃー、たしかにアリスが炊事やってくれてるのかと思っちゃうね」と、納得したように頷いた舞が、突然破顔一笑した。「良かったじゃん、隆志♪ アリス、とっても良い子だね」

 隆志は耳を疑ってしまう。良かったじゃんって、それは舞の本音なのだろうか? もしそうだとしたら、頭がイカれているとしか思えなかった。
 舞が「それで」と話を続ける。

「そのアリスが作ってくれたかもしれない料理、どうしてるの? なぁーんて、愚問だったかぁ」

 と笑う舞に、隆志は同意して頷く。

「ああ、愚問だよ。生ゴミ用のゴミ袋の中に全部ぶちまけているに決まってるじゃないか」

 そんな隆志の言葉に、舞の笑顔が失せた。怫然とした様子で問うて来る。

「……何でそんなことするの?」

「何でって、当たり前じゃないか」

「何で? あたしは、隆志は当然、アリスが作ってくれたかもしれない料理を食べてるものだと思ってた」

 隆志は再び耳を疑ってしまう。一体舞は、何を言っているのだろう。

「そんな訳ないだろ……!? 人形が作ったものなんて食べられるか、気持ち悪い!」

 そう隆志が声高に言った瞬間、パンと乾いた音が鳴り響いた。水を打ったような静寂が訪れた教室の中、隆志は衝撃の走った左頬を押さえながら、目を丸くして舞の顔を見つめる。

「隆志、最低! 見損なった! 保健室に行って、越前先生にそのおかしい頭診てもらえ!」

 人目を憚らず激昂する舞に罵られた隆志は、クラスメートの注視を浴びる中、すっと立ち上がって教室を後にした。舞に張り飛ばされた左頬がじんわりと熱を上げていくのを感じながら、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を通って保健室へと向かっていく。虎之助に頬の手当てをしてもらいに行くのであって、決して頭を診てもらうのではない。虎之助に頭を診てもらった方が良いのは舞の方だと、隆志は思う。

(おかしい。舞も、おかしい。アリサのオーナーになってから、おかしなことばかりを言う。おかしい、舞も……的場先輩も)

 保健室のある廊下――2年生の校舎の1階にやって来ると、そのおかしい人物2人の内の1人――大輝が、狼狽した様子で隆志のいる方へと全力疾走して来た。

「また遅刻するぅぅぅぅぅぅぅ! ったく、イイ年して駄々こねるなよ愛香ぁぁああぁぁあぁぁああぁぁああーーーっっっ!」

 と、一度隆志の脇を通り過ぎた大輝。「えっ!?」と声を上げながら足に急ブレーキを掛けて踵を返し、ふらふらと歩いていた隆志の顔を覗き込んで目を丸くした。

「た、隆志おまえ、ちょっと見ない間にどうしたんだよ!?」

「おはようございます、的場先輩。今日はまた凄い髪型ですね。ガス爆発でも起きたんですか?」

「オール電化のアパートでガス爆発はねーだろ、ガス爆発は! カッケェだろ、このアフロヘア!? つか、だからおまえどうしたんだよ!? 死にそうじゃね!?」

「あの、保健室は……」

「保健室っ? ああ、そうか保健室に向かってたのか! こっちこっち、こっちだ兄貴のいる保健室は!」

 と大輝は隆志の肩を組んで身体を支えてやると、保健室へと向かって歩いて行った。保健室の前に辿り着いた時ちょうど予鈴がなり、その途端保健室から1年生から3年生までの女子生徒がぞろぞろと出てきて、隆志は思わず仰天してしまう。個々の顔を見てみると、頬を膨らませていたり、口を尖らせていたり、溜め息を吐いていたり、ぶつぶつと文句を呟いていたりと、風向きが悪い模様。

「ま、的場先輩、これは一体っ……!?」

「ああ…、今日の1時限目のベッド争奪戦ジャンケンに負けた女子だろ……」

 なんだそりゃ、と隆志が首を捻りながら大輝に引っ張られて保健室に入ると、そこは8割がベッドで埋まっていた。全て使用中らしくカーテンが閉まっており、数えてみると、隆志の中学校のベッドが2つだったのに対して、何と8つもある。ベッドゾーンの奥に見える窓の手前には虎之助のデスクがあるようだが、それはベッドに隠れて端っこしか見えなかった。

「ま、的場先輩、これ全部病人なんですか……!?」

 と隆志が忍び声で問うと、大輝が苦笑しながら「いや」と首を振った。

「ほとんど、兄貴目当てで授業さぼりにきた仮病の女子」

「さ、さすが越前先生、モテモテですね。ちなみにサボりの男子は?」

「兄貴に締め出される」

 と大輝が言った瞬間、ベッドを囲う1つのカーテンの中から、ポーンと弧を描いて飛んできた1本のペン。それは大輝の額に命中した。

「いって! 何すんだよ、兄貴!」

 と大輝が額を摩りながら怒声を上げると、カーテンの中から虎之助が姿を現した。溜め息を吐きながら大輝の元へとやって来る。その時、白衣の下に着ているシャツの胸元のボタンを留め直していたのは見間違いだと隆志は思いたい。

「何すんだじゃねーよ。予鈴が聞こえなかったのか? さっさと教室に行け」

「おれはサボりじゃなくて、病人を連れてきたんだよ!」

「病人?」と、大輝からその傍らにいる隆志へと目を移した途端、虎之助の目が丸くなった。「どうした、鈴木隆志。おまえ死相が出てるぞ」

「越前先生、頬の手当てしてもらっても良いですか」

「頬? ビンタ食らった痕があるな。ここに座れ」

 と虎之助は薬品戸棚の前にある椅子に隆志を座らせると、腫れた頬の手当てを始めた。その間、心配そうに眉を曇らせて隆志を見つめながら、大輝が問う。

「ビンタは舞ちゃんか?」

 隆志が頷くと、大輝が「じゃあ」と続けた。

「死にそうなのは何でだ? 睡眠も食事も、まともに取ってないって顔してるぞ」

「…こ……怖くて」

 と隆志が声を震わせると、大輝と虎之助を顔を見合わせた。

「こ、怖くて、眠れないし、気持ち悪くて食事も出来ないんです」

 それは何故かと大輝と虎之助が問う前に、隆志の方から問うた。大輝に、もう一度確認する。

「ま、的場先輩、アリス――僕が拾った人形は、ただの人形なんですよね? な、中には、何も入ってないんですよね?」

「あ……ああ、うん。入ってない。魂だとか幽霊だとか、そんなもの何も入ってないから安心しろよ」

「そ、そっか。そ、それじゃあ、やっぱり僕の勘違いなんだ。よ、良かった……」

 そう、勘違い。ただの勘違いだと、己に言い聞かせて少し気を楽しにし、「ははっ」と短く笑った隆志。頬の手当てが終わったのを確認すると立ち上がった。

「ありがとうございました、越前先生。僕、教室に戻りますね」

 と言って戸口に向かおうとした隆志を、虎之助が呼び止める。

「待て、鈴木隆志。おまえ、今日はもう帰って寝ろ。その状態で授業が受けられるとは思えねえ」

「いえ、大丈夫で――」

「命令だ」

 と、いかめしい顔付きになった虎之助に言葉を遮られた隆志は、おずおずとしながら承諾した。それを見、再び隆志の肩を組んで身体を支えた大輝。

「こいつふらふらで心配だから、ちとアパートまで送ってくる」

 と虎之助に言い残して保健室を後にした。1年A組に行って隆志のバッグを取り、校舎を出、校門を潜ってアパートまで向かう。

「すみません、的場先輩……」

「これくらい気にすんな」

「ちなみに気になることが……」

「ん?」

「越前先生って、もしかして女子生徒と色々あっちゃうロリコンなんですか…!? だってさっき、越前先生のシャツのボタンが……!」

「そ、それは勘違いだ隆志。兄貴は決してロリコンじゃねーし、一方的に女子に襲われてただけだ」

「お、襲われ……!?」

「今日みたいに保健室に『見張り』がいない日は調子こくんだよな、皆」

「『見張り』って誰です?」

「いずれ分かる」

「はあ……」

 アパートの駐車場へと辿り着くと、隆志は身体を支えてくれていた大輝から少し離れ、軽く頭を下げた。

「ありがとうございました、的場先輩。ここまでで大丈夫です」

「おう」と頷いた大輝は、隆志の様子を窺うように顔を覗き込みながら、先ほど言った台詞をもう一度口にした。「いいか、隆志。おまえが拾った人形――アリスだっけ? アリスの中には、魂とか幽霊とか、そんなものは何も入っていないからな? 変なことは考えないで、安心して眠れよ?」

 隆志が承諾して「はい」と頷くと、愁眉を開いた大輝。学校へ戻るのかと思いきや、隆志と共にアパートの方へと向かっていく。

「って、あれ? 的場先輩、学校へ戻らないんですか?」

「戻るよ。ちと忘れ物思い出したから、一旦部屋に戻ってから」

「そうですか。それじゃ、授業頑張ってください」

「おう、じゃあな」

 と大輝が片手を振って階段を上って行くと、隆志は自分の部屋――101号室へと向かって行った。ブレザーのポケットから鍵を出し、それを鍵穴に挿した時にもう一度己に言い聞かせる。

(大丈夫。僕の勘違いだ。勘違いなんだ。的場先輩の言うとおり、きっと勘違いに違いないんだ。アリスが――人形が動くだなんて、そんなバカなこと)

 深呼吸をし、胸を落ち着かせていざ鍵を回そうとした時のこと。
 ふと部屋の中から聞こえてきた騒音に、隆志は胸を突かれた。鍵から手を離し、「ヒッ」と小さく声を上げて飛び退る。掃除機の音だ。部屋の中で、誰かが掃除機を掛けている。

(だ…誰が…!? ま、まさか、アリス……!?)

 そう考えた隆志だったが、すぐに大きく首を横に振って思い直した。さっきも己に言い聞かせたばかりだ。人形が動くだなんて、そんなバカなことはない。きっとやはり、隆子が家事をしに来てくれているのだと思い、鍵をそっと回す。カチャッと静かに音がした。でも、掃除機を掛けている者はその騒音に掻き消されて気付いていないのか、掃除機は止まることなく動き続けている。

(大丈夫。アリスじゃない。母さんだ。大丈夫、大丈夫、大丈夫……!)

 腹を据えてドアノブに手を掛け、一息にドアを開け放つ。そして目の前の廊下が目に入ったその瞬間、

「――ヒッ!」

 隆志は腰を抜かし、開け放したドアの傍らに尻餅を着いた。目を疑う。夢だと思いたい。幻を見ているのだと思いたい。

(ま…まさかの…まさか……!)

 アリスが――人形が、掃除機のホースを両腕に抱えて廊下に立っている。
 隆志の顔を見上げ、少しの間硬直した様子のアリスの中から、

「あ、あの、これはっ……!」

 と、10代前半かそこらの少女の声が聞こえて来て、隆志は再び「ヒッ!」と声を上げた。顔色を失いながら、ずりずりと尻を動かして後退する。掃除機のホースを投げ捨て、その7、8cmばかりの小さな白い靴で小走りに寄って来るアリスから、必死に逃げる。

「く、く、く、来るな……!」

「あ、あの、これはっ……!」

「く、くくく、来るなっ……!」

「ご、ご主人さま、あのっ、わたし――」

「来るな! 来るなったら、来るなぁっ!」

 と叫び、寄って来たアリスを突き飛ばした隆志。「きゃっ」と短く声を上げてアリスが仰向けに倒れると、その場から這々の体で逃げ出した。何度も落ちそうになりながら四肢でアパートの階段を駆け上がり、201号室――大輝の部屋の中に土足のまま転がり込む。

「的場先輩! 助けてください! 的場先輩!」

 そう必死に叫びながら、ドアの開いていた廊下の突き当たりの部屋――リビングダイニングへと駆けて行く。途中、そこから「待て、隆志!」と大輝の声が聞こえたが、恐慌のあまり隆志の耳には聞えていなかった。たとえ聞こえていたとしても、そんな命令におとなしく従っていられる状態ではなかった。

「助けてください! 的場先輩! 助けて! 助けて! 助け――」

 リビングダイニングに入った瞬間、足を滑らせた隆志。フローリングの床目掛けてうつ伏せに倒れていき、身体が床に打ち付けられる寸前、ぎゅっと目を閉じた。そして、再び目を開いた時――

「――え……?」

 目の前20cmほど先のところに映った、ハイヒールを履いたアリスと同じくらいの小さな足が、隆志の顔面に向かってぶっ飛んで来た。
 
 
 
 
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