第8話 ドールオーナー 中編
一時限目の授業が始まる前に、学校から早退することになった隆志をアパートまで送って来た大輝は、その足で自分の部屋――アパートの201号室へと向かって行った。鍵を開け、中を覗き込むようにしてドアを開ける。
「おーい、愛香ぁ? 機嫌直ったかー?」
と大輝が問うた途端、リビングダイニングから愛香のそれはもう怒気を帯びた甲高い声が響いて来た。
「直ってるわけないでしょ!? 私の許可が降りる前に学校に行くなってのよ!」
と、リビングダイニングから、そのモデルもグラビアアイドルも顔負けの完璧ボディに黒いレースの下着を身に着けた愛香が、憤怒した様子で大輝の足元に駆けて来た。後からやって来たタキシード姿の大河の両腕には、沢山の愛香の服が掛かっている。
「どうされたのです、大輝さま? あ、忘れ物でございますか? も、申し訳ございません、昨夜しっかりと大輝さまのカバンの中の持ち物チェックをしたつもりだったのですが……!」
「いや、そうじゃねーよ大河。ちと、早退した隆志を送りに来たついでに、愛香の機嫌見に来ただけだから」
と言って狼狽している大河を落ち着かせた後、大輝は長嘆息して愛香を片腕で抱き上げた。苦笑しながらリビングダイニングへと向かっていく。
「ったく、もう……。毎朝毎朝、何度着せ替えれば気が済むんすか、愛香姐サン? 今日はあの服が良い、この服が良いって言っておれに着替えさせて、その後やっぱり嫌だ、他のが良いって何度も何度も……どこの駄々っ子だ」
「うるさい。さっさと服着せて」
「へいへい。で、どの服が良いって?」
「あれー」
と愛香が、大河に持たせている服の中の一着を指す。それを手に取った大輝が物慣れた手付きで愛香に着せてやろうか時、突然玄関のドアが一息に開け放たれた音がした。
「え?」
一体誰かと大輝と愛香、大河が玄関の方へと顔を向けると、隆志の叫び声が聞こえてきた。
「助けてください! 的場先輩! 助けてください!」
そして、慌ただしく駆け寄ってくる靴音。
やばい、と思った大輝は途端に声を上げる。隆志にはロボットだと偽っているが、愛香と大河が本当は人形――しかも中身入りの――ということが、バレてしまう。
「待て、隆志!」
だが、隆志の靴音は止まらなかった。リビングダイニングへと顔色を失った姿で現れ、足を滑らせて愛香の足元へと倒れる。
ああ、駄目だ。愛香と大河をキッチンの影にでも隠そうと思った大輝だが、もう駄目だ。
(こうなったら、おまえらせめてタダの人形の振りをしてくれ……!)
そんな大輝の胸中を察して即時床の上に倒れ、中身入りではないタダの人形を装ってくれたのは大河だけ。足元に倒れている隆志を見下ろしている愛香が、そのハイヒールを履いた7、8cmばかりの小さな足で、隆志の顔面を容赦なく蹴り上げる。
「――ガッ……!」
鼻先に愛香の爪先が命中し、頭が後方に大きく反れた隆志。激痛の走る鼻に当てた掌に鮮血が付着したが、今はそんな怪我ことなどどうでも良い。目の前に広がる現実に慄然とする。
小さな小さな黒いハイヒール。関節部分に球体が入った、すらりと華奢な手足。黒いレースの妖艶な下着を身にまとい、豊かな膨らみを持つ胸部と、ちょっと手の大きな男ならば片手で回ってしまいそうなほど細く括れた腹部に分割された胴体。よく見ると人間の髪の毛ではないもので作られた、キャバ嬢も仰天の盛りヘア。ガラスで出来たすみれ色の瞳とぽってりとした艶っぽい唇を持つ、気だるそうな顔付きの身長60cm強ほどのアジア系美女が――人形が、倒れている隆志を見下ろしている。
「誰よ、あんた。この私の着替えを覗くとは良い度胸してんじゃないのよ、え?」
と、その人形――愛香の中から、聞き覚えのある20代かそこらの女の声が聞こえてきて、「ヒッ」と声を上げて飛び跳ねた隆志。
(ま、的場先輩の嘘吐き…! 何がロボットだ! やっぱりここは、『ドールハウス』なんだ……!)
と一瞬本気で大輝に殺意を覚えたが、恐慌のあまり助けを目で訴える。だが大輝は、あちゃーと片手で顔を覆っていて見ていない。その時、ふと視界の右側の方で何かが動いたのを感じて、隆志はそちらへと顔を向けた。途端、今更になってそこにタキシード姿の男の人形が横たわっていることに気付いて胸を突かれる。そして、その男の人形――大河の中から、
「まったくもう、お嬢さまは……」
という聞き覚えのある20代かそこらの男の声と長嘆息が聞えてきて、隆志は再び「ヒッ」と声を上げて飛び退った。
むくりと起き上がって愛香の方へと歩み寄った大河は、愛香より身長が若干大きいくらいだったが、白手袋をはめた手や革靴は一回りも大きかった。愛香のそれと同様に、人間の髪の毛ではないもので作られた黒いショートヘアに、クールなシルバーグレイのガラスの瞳を持つ柔和な顔付きをしたアジア美男の人形の中から、大河が愛香に向かって怫然とした声を出す。
「お客さまに向かって容赦なく蹴りを入れるなんて、何てことを……! どうするんです!? お嬢さまの美しいおみ足が折れてしまったら!」
「おーい、そっちかーい」
と大輝が大河に突っ込みを入れる一方、愛香は不貞腐れた声を出す。
「だぁーって、覗き魔が入ってきたんだもん」
「覗き魔がこんなに堂々と覗きをするわけがないでしょう! この方はお客さまです! 鬼百合学園1年生の制服をお召しになっていますし、先ほど大輝さまが『隆志』とお呼びになっていましたから、恐らくはここの下の住人の方でしょう」
「あー、下の『鈴木隆志』ねー。まあ、お客って言ったらお客ー? でも私は着替えてるとこ覗かれたんだから、蹴りくらい入れたっていーじゃん」
「駄目です! お嬢さまの美しいおみ足が折れてしま――」
「だからそっちかーい」
と大輝が今度は手刀を入れて突っ込むと、はっとした大河がようやく隆志の方へと顔を向けた。鼻から流血している隆志を見、ティッシュの箱片手に狼狽して駆け寄る。
「大丈夫でございますか!? 隆志さん!」
と、伸びてきた大河の手を、隆志は「うわっ!」と声を上げながら思わず跳ね除けた。次の瞬間、隆志目掛けて飛んできた愛香のドロップキックを、大河がぎりぎりのところで制止する。
「ですからお嬢さま、そのようなことはお止めください!」
「離しなさい、大河! このガキ、殴り殺してやる!」
「お、落ち着いてください、お嬢さま! 自分は何ともありませんから!」
「本当に大河っ…!? ああ、良かった、指は折れていないようねっ……!」
と大河の手を取って安堵の溜め息を吐く愛香を見ながら、隆志はますます恐慌する。愛香の二発目の攻撃――ドロップキックは食らわずに済んだが、いつまでもここにいたら死出の旅に出ることになるかもしれない。
(逃げなきゃ…! 早く、逃げなきゃ……!)
そう思うのに、情けないことに膝が震えてその場から動くことすら出来ない。だが、
「隆志? ここにいるの?」
と玄関の方から舞の声が聞こえてきた瞬間、膝に力が込み上げ、隆志はリビングダイニングの戸口へと駆けて行った。玄関からやって来た舞に、背を向ける形で立ち塞がる。
「ど、どうしてここにいるんだよ、舞…!? 学校はっ……!?」
「さっきは殴ってごめんね、隆志。そ、その、早退したって聞いて、気になってっ……」
「殴ったことも僕の体調のことも気にしなくていい。早くここから逃げろ、舞…! 逃げるんだ…! ここは危ないから、早く……!」
「た、隆志、あのね?」
「早く! 早く逃げるんだ、舞!」
「き、聞いて、隆志! 実は、あたしも……」
と言いながら、舞が隆志の左足の傍らに、肩から掛けていたボストンバッグを置いた。一体何かと、隆志はそれに目を落とす。ここ数日、舞が学校へと、指定の合皮バッグ以外に持って来ているものだ。中には体育着でも入っているのだろうと思い何も問わなかった隆志だったが、それにしては今、ゴトッと硬い音がした。
「な、何だよ、舞……?」
「驚かないでね」
そう言って舞が、ボストンバッグのファスナーを開ける。一体中には何が入っているのかと、隆志が屈んでバッグの口を開けようとした時――
「うわっ!!」
中から、朱色のウェーブヘアと鶯色のガラスの瞳を持つ色白の少女人形――アリサが飛び出して来、その小さな手に左頬を叩かれ、隆志は驚愕して飛び退った。愛香の蹴りよりはずっと可愛らしいものだったが、すでに舞に引っ叩かれて腫れている頬にその一撃は結構な痛さだった。
「こ、こら、アリサっ……!」
と舞が隆志をビンタした小さな手を押さえると、アリサの中から10代前半かそこらの、でもさっき聞いたアリスの声より若干幼い少女の喚き声が聞こえてきた。
「だって舞ちゃん! コイツ、この間わたしのこと『ハゲ』って言ったのよ!?」
まあまあと舞が宥めていると、今度はアリサを見た愛香が声を出した。
「あーら、可愛い子!」
「え?」と愛香の方へと顔を向けたアリサが、黄色い声を上げてそちらへと駆け寄って行く。「きゃあぁああぁぁあぁああっ! とっても綺麗なお姉さんがいるわぁぁああぁぁあぁぁああーーーっ!」
「まー、素直ねえ。私は愛の香りって書いて『愛香』よ。よろしくね」
「わたしはカタカナでアリサよ! 舞ちゃんが――わたしのご主人さまが付けてくれたのよ、素敵な名前でしょ? よろしくね、愛香お姉ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん♪」
と自己紹介し合ってはしゃいでいるアリサと愛香に大河が混じり、それに彼女らのオーナー――舞と大輝も混じって歓談し始め、隆志は一人唖然としてその光景を見つめる。それは常人の隆志にとって、あまりにも受け入れ難い現実だった。
さも楽しそうな歓談が始まってから数分後、大輝が「おっと」と隆志に顔を向ける。
「とりあえず今は、こっちの方と話さなきゃいけないな……」
という大輝の言葉で、隆志は一斉に舞と人形たちの注視を浴びる。舞はともかく、『中身入り』の人形に見つめられて思わず隆志がたじろいでしまう中、大輝はまず「ごめん」と隆志に頭を下げてから話し始めた。
「もう分かってるだろうけど……本当は噂通り、このアパートは『ドールハウス』なんだ」
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