第18話 嘘


 ドールハウス・Bの201号室――大輝の部屋のリビングダイニングの中、虎之助は物慣れた手付きでアリスの左前腕を新しいものに変えてやると、「よし」と破顔一笑してアリスの頭を撫でた。

「もうこれで大丈夫だぞ、アリス」

「ありがとうございます」

 と床の上に正座したアリスが虎之助に頭を下げると、傍らに座っていた隆志もそれに続いた。

「ありがとうございました、越前先生。助かりました。初心者の僕じゃ、まだ直せませんでしたから」

 そんな隆志の言葉に「いや」と首を横に振った虎之助が、アリスの頭から隆志の頭へと手を移した。「それより」と続ける。

「さっきは本当に悪かったな……胡蝶が」

 胡蝶と聞き、隆志はふと戦慄に襲われた。小刻みに震える両手を膝の上で握り締め、首を横に振る。

「い…いえ、気にしないでください。越前先生のその様子ですと、越前先生が胡蝶さんにさせたことじゃなかったみたいですし、それに越前先生は僕のこと助けてくれましたしっ……!」

 虎之助がもう一度「いや」と首を横に振った。

「俺が胡蝶にさせたようなものなんだ」

「え……?」

 と隆志が小首を傾げる傍ら、舞が困惑しながら口を開く。

「ど、どういうことですかっ…? 越前先生っ……!」

「今日の昼休み、おまえたち――隆志と舞が出て行った後、俺が言ったんだ。隆志に心外なことを言われて小腹が立ってたもんだから、『隆志が邪魔』って。勿論、俺はそんなこと本気で思っていた訳じゃない。でも、胡蝶は――」

「それが分からないって?」と、愛香が口を挟んだ。「アンタのその心中が、アイツは分からないって? アンタが隆志を邪魔だと言った、だから殺そうと思った……って?」

 黙って頷いた虎之助。一呼吸置き、顔を曇らせて続ける。

「あれが、あの胡蝶なんだろうか。虫一匹殺せなかった、胡蝶なんだろうか。俺が愛した、胡蝶なんだろうか」と、だんだんと虎之助の顔が悲嘆に歪んでいく。「まるでっ…、まるで別人だ! 胡蝶とは思えない…! だから俺は、真実をたしかめる……!」

 隆志と舞、アリス、アリサ、愛香、大河は顔を見合わせた。どうしよう、どうすればいいのかと黙思し、個々に目で問い掛ける。悲嘆している虎之助に、真実を教えてあげるべきなのだろうか。人形の胡蝶の魂は、あくまでも人形の胡蝶――虎之助の愛した、人間の胡蝶ではないという真実を。でもそれを知ったら虎之助は、どうするのだろう。人間の胡蝶の魂はもうこの世にはいないと知った虎之助は、どうなってしまうのだろう……。

(――ああ、的場先輩。早く帰って来て)

 と隆志も、舞たちも困却して大輝の帰りを待った時、玄関のドアが大きな音を立てて開け放たれた。その後、慌しい足音と共に、大輝の叫喚が響いて来る。

「た、たたた、隆志ぃぃぃぃぃぃぃぃ! 無事か、隆志ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 とリビングダイニングに顔色なしで現れた大輝は、真っ直ぐに隆志の所へとやって来た。隆志の身体のあちこちを狼狽しながら触りまくり、怪我の有無をたしかめる。

「大丈夫か!? おい、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫です、的場先輩。落ち着いて下さい。バイトはどうしたんですか?」

「大河から連絡受けて、抜け出してきた!」と、どうやら押っ取り刀で駆けつけて来たらしい大輝が、もう一度問う。「なあ、おまえ本当に大丈夫なのか!? 怪我は!? 痛いとこは!?」

「大丈夫です、本当に。アリスが僕の身代わりになって助けてくれましたから」

「何、アリスが!」と、アリスの方へと振り返った大輝が、アリスを両腕で抱き締めた。「よくやった、よくおれの可愛い後輩を守ってくれたなアリスゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ! おまえは偉――」

 大輝の言葉を遮るように、虎之助が大輝の肩を叩く。「ん?」と振り返って虎之助の顔を見るなり、目を泳がせた大輝は、これから虎之助に問われることを察しているようだった。

「ど…どうしたんだ、兄貴? 隆志はこうして無事だったんだし、気にするなよっ……! さ、さあ、帰っ――」

「大輝」と、言葉を遮った虎之助が問う。「本当のことを教えろ。胡蝶は……人形になった胡蝶の魂は、本当に俺が愛した胡蝶のものなのか?」

「……な、何でそんなこと訊くんだよ? 胡蝶のこと、疑ってんのかよ?」

「いい加減、疑いたくもなる」そう言って虎之助は、もう一度問うた。「だから本当のことを教えろ、大輝。胡蝶は、本当にあの胡蝶なのか?」

 と、大輝の目前、虎之助の顔が再び悲嘆に歪んだ。大輝は、何と答えるだろう。虎之助に加えて、隆志たちも大輝に注視する。これまで大輝は、人形の胡蝶の中身は、人間の胡蝶のものだと虎之助に嘘を吐いていた。そして、その嘘は貫き通し、墓まで持って行くと言っていた。だが虎之助は現在、それに懐疑を抱き、そして酷く悲嘆している。

(やっぱりもう、潮時……かな)

 と隆志が、舞たちが思った時、大輝は何ら躊躇った様子なく、虎之助の目を真っ直ぐに見つめてこう答えた。

「ああ。胡蝶の中身は、紛れもなくあの胡蝶さんだよ。兄貴の愛した、胡蝶さんだよ」

 そんな今までと変わらない大輝の言葉に、反論しようと虎之助が「でも」と口を開きかけた一方で、舞がはっと胸を突かれたように大輝に続いた。

「そ…そうですよ、越前先生? 胡蝶お姉ちゃんの中身の魂は、あたしの従姉妹の胡蝶お姉ちゃんで間違いありませんよっ……?」

 虎之助の視線が舞へと移る。

「どうしてそう言えるんだ、舞」

「だってあたし、胡蝶お姉ちゃんと時々話してるんですよ? あたしと2人であんな所に行ったなあとか、こんなことして遊んだなあとか、生前の思い出を。だから中身の魂は、胡蝶お姉ちゃんです。胡蝶お姉ちゃんじゃなきゃ、そんなこと知ってる訳ないもん」

 と咄嗟に舞が吐いた嘘に、大河も続いた。

「そうですよ、虎之助さん。胡蝶さんの中身は、虎之助さんの愛された女性に間違いございません。胡蝶さんが生前と変わられた? それは無理もないと、自分は思います」

 それは何故かと虎之助が眉を顰めて大河に視線を移すと、大河は「だって」と続けた。

「人間から、人形になってしまった。自分には、胡蝶さんの心の内が手に取るように分かります。不安で不安で、仕方ないのですよ。人間の時には虎之助さんに愛されたけれど、人形になってからも愛されるだろうかと。己の姿が別のものに――人間以外のものになってしまって、全く不安にならない人がいるでしょうか? 今回のことは、胡蝶さんが必死に虎之助さんに愛されようと思った結果だと、自分は思います。虎之助さんに愛されようと必死で必死で、盲目的になっているのですよ」

 と、舞といい、大河といい、咄嗟にも関わらず、よくこんなにもペラペラと嘘を吐けるものだと隆志が唖然とする一方で、虎之助が大輝に顔を戻して問うた。

「そう……なのか?」

「そうそう」

 と大輝がうんうんと頷くと、虎之助の視線が隆志や舞、愛香、アリス、アリサにも移った。

「そ、そうそうそうそう」

 と隆志たちも何度も頷くと、「そうか……」と呟いた虎之助。俯きがちになって何やらしばし黙考した後、立ち上がって破顔一笑した。

「ありがとな、おまえたち。そういうことなら、胡蝶を安心させてやることにする。今夜、たぁーっぷり可愛がってやってな♪」

「きゃーーーっ! どうやってですか、越前先生ぇーっ!?」

「秘密♪」

「あたしもう大人です、教えて下さぁぁぁぁい!」

「駄目駄目。んじゃ、また明日な。ちゃんと宿題やれよ?」

 と、虎之助が頬を染めた舞に見送られながら大輝の部屋を後にすると、大輝は深く安堵の溜め息を吐いた。脱力し、床の上に仰臥する。

「あー……焦った。嘘が兄貴にバレちまうかと思ったぜ。サンキュ、皆」

「い、いえ、頑張ってくれたのは舞と大河さん……特に大河さんの咄嗟の嘘は凄かったと思います」

 と隆志が言うと、大河の中からおかしそうな笑い声が聞こえた。

「そんなことないですよ。胡蝶さんが虎之助さんに愛されようと必死になっているという部分は、嘘ではありませんし」

「まあね」と同意した愛香が、大輝に顔を向けて小さく溜め息を吐いた。「でも、これで良かったわけ?」

「ああ、良かったんだよ。おれは絶対にこの嘘を突き通す――墓まで持って行く」そう言って、大輝がふと微笑した。「兄貴にとって、この世に人間の胡蝶さんがいないってことほど辛いことはないんだから。それに、おれが嘘を吐いている間はずっと、胡蝶も幸せでいられるんだ」

「ふーん。へーえ、そーう」と、刺々しい声で返した愛香が、キッチンの方へと向かっていく。「いつも大河に任せてるけど、今日は私が大輝のために夕食を作るわ」

「えっ? 愛香がおれのためにっ?」

「ええ。あんたの――主のためなら、私だってそれくらいするわ」

「おお、愛香っ……! おれは今、猛烈に感動し――」

「ねえ、隆志ー。隠し味に入れる下剤買って来てー。コー○ック10箱」

「――って、何考えてんだよ、おまえぇええぇぇええぇえぇぇーーーっ!?」

「うるさい」

 と、愛香がそっぽを向いてフンと鼻を鳴らすと、大河がくすくすと忍び笑いをして大輝に耳語した。

「焼きもちですよ、大輝さま。胡蝶さんに嫉妬しているのです、お嬢さまは」

 それを聞いて「え」とにやけた大輝が、愛香を手招きする。

「愛香、愛香。こっち来いよ」

「何でよ。私は忙しいのよ」

「抱っこしてーの」

「は、はあっ……!?」

「ほら、早く」

 と床の上に胡坐を掻き、大輝が膝の上をぽんぽんと叩くと、さも仕方なさそうに溜め息を吐いた愛香。キッチンからいそいそとやって来て、そこに腰を下ろした。

「と、特別だからねっ……!」

「うん、ありがと。はあぁぁぁぁーっ、可愛いなおれの人形は!」

 とすっかり相好を崩し、締まりのない顔をした大輝が愛香を抱擁していると、玄関の方から戻って来た舞が呟いた。

「可愛がるって、そんな感じなのかなあ……」

 隆志が「え?」と小首を傾げて舞に顔を向けると、舞が続けた。

「ほら、さっき越前先生が胡蝶お姉ちゃんのこと、今夜たっぷり可愛がるって言ってたでしょ? それって、ただ単にそんな風に――的場先輩が愛香さんを抱擁してるみたいに、可愛がるってことなのかな」

「まあ、そうだと――」

 そうだと思う。と、言おうとした隆志だったが、愛香に遮られた。

「それだけじゃないわよ。だってケダモノだし、虎之助って」

「え……?」と小首を傾げた隆志と舞が、数秒後にその言葉の意味を理解して赤面する。「え、ええぇええぇぇえぇぇええーーーっ!?」

 そして2人揃い、愛香の所へと詰め寄った。

「愛香さん、愛香さん! そ、それってつまり、越前先生は胡蝶さんと――人形とイケナイコトを……!?」

「胡蝶お姉ちゃん、人形の姿でどうやって越前先生に!? も、もしかして胡蝶お姉ちゃんって、この間ネット検索してる時に偶然見ちゃった『魔改造』とかいうのされてるドール…!? あの、『実用』出来るように股間に穴を開けて――」

「うおっほん!」

 と、大きな咳払いをして舞の言葉を遮った大河。小首を傾げて会話を聞いていたアリスとアリサの手を掴み、キッチンの方へと向かって行った。

「アリス、アリサ。申し訳ございませんが、大輝さまと隆志さんにお出しする夕食の支度を手伝ってください」

 と、大河とアリス、アリサの姿がリビングダイニングから消えると、大輝が口を開いた。

「違う違う。胡蝶は魔改造なんてされてないし、兄貴はおまえたちが思ってるようなことはしてねえよ」

 では、どんなことをしているのか。と隆志と舞が問う前に、大輝は忍び声になって続けた。

「前に、胡蝶は中身が人間の魂の人形より、色んなことが出来るって言ったこと、覚えてるか……――?」
 
 
 
 
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