第19話 求愛


 大輝の問いに、隆志と舞が頷く。

「覚えてます、的場先輩。純粋な人形の胡蝶さんは、中身が人間の魂であるアリスやアリサ、愛香さん、大河さんには出来ないことが出来てしまうんですよね?」

 と隆志が問うと、忍び声の大輝が「ああ」と続けた。

「胡蝶に限らず、これは他の外見も中身も純粋な人形に結構ある、不思議な話なんだけどな……?」

 興味津々と隆志と舞が点頭すると、大輝が大河によりキッチンの方へと連れて行かれたアリスとアリサの方を気にして、尚のこと忍び声になりながら話し出した。

「夢枕に出てくるんだよ、特にオーナーの。つまりこの場合、胡蝶が、兄貴の夢枕――夢の中に……」

「夢の中に……?」と鸚鵡返しにして小首を傾げた隆志だったが、その後間もなく「あっ」と声を上げて察した。「もしかして、越前先生は『夢精』……を?」

「当たり」と答えたのは、大輝の膝の上にいる愛香だ。「でも夢精って言っても、その夢ってリアルに女抱いてるような感覚らしくって。まあ、普通の男が夢精する時もリアルな女の感覚がするって結構聞くけど……。虎之助は胡蝶と、単純に普通のセックスしてる気分なんじゃないかしら……毎日毎日サルみたいに」

 と愛香が嘲笑したように短く笑うと、舞が「きゃあ」と声を上げた。その表情は、何だか妙に欣然としている。一方で、舞や愛香という異性の前ということもあって小恥ずかしくなり、赤面した隆志が大輝の顔を見ながら問うた。

「ま、毎日夢精って凄いですね…。で、でも、大変じゃないですか? 毎日毎日、その…あ…後処理…が……」

「へえ、そうなの?」

 とにやつきながら声をはもらせて問うて来た舞と愛香を見、隆志が、

「い、いや、その、ぼ、僕は夢精したことないけど!」

 と、尚のこと赤面して付け足す傍ら、隆志に問われた大輝が答える。

「うん。だから兄貴は、対策として寝る前にゴム付けるんだよ、ゴム――コンドーム」

「あ…ああ…成程……」

 と隆志が点頭すると、大輝が「でも」と続けた。

「稀にゴム切れたまま買うの忘れることがあるらしくって、そういう時は大変らしくってさ…………――」
 
 
 
 
 入浴後、寝室の窓際で夜風を浴びながら涼んでいた虎之助は、胡蝶が持って来たビールを飲み干すと「さて」と窓とその鍵、暗幕を閉めて後顧した。微笑し、すぐそこに浮遊している胡蝶を抱き締めて軽く口付ける。

「寝るか、胡蝶」

 虎之助の腕の中、胡蝶がその囁くような声で問う。

「…怒って…ないの……?」

「今日のことか? もう怒ってねえよ。だからそんな顔すんな」

 そんな顔――とてもとても、悲壮な顔。元は無表情な胡蝶だが、虎之助と過ごす日々を重ねるごとに表情豊かになっていく。
 安堵した様子で首に抱き付いて来た胡蝶と共にベッドに入り、リモコンで電気を消して床の方に――ベッド下部にある引き出しに、手を伸ばした虎之助。開けて中を漁るなり、「あ」と苦笑した。

「やべ、ゴムねえの忘れてた……」

「……」

 斜め下からの紅い瞳を感じながら、虎之助の手は頭上に置いているティッシュの箱へ。そしてその中に手を入れ、また「あ」と苦笑する。

「こ、こっちもねえ……」

「……」

「あ、そうだっ…! こうなったらトイレットペーパーをグルグル巻きに――って、明日の朝の脱糞の分しかねえんだった。何で一斉に無くなるんだ、おい……」

「……」

 だんだんと突き刺さって来る視線から逃れるように咳払いをし、寝返りを打って胡蝶に背を向けた虎之助。「おやすみ」と胡蝶に言ってから、十数秒後、

「…だ…駄目だからなっ……!」と、再び胡蝶に振り返った。「ぜ、絶対駄目だからな! 分かったな!」

 と言い聞かせるも、胡蝶はふいと顔を逸らして返事をせず。

「明日の朝は、普通に起こせよ? 普通にだぞ、普通に? いいな?」

「……」

「分かったな? 返事は?」

「……」

「おい、胡蝶? へ、返事は?」

「……」

「うぉい、胡蝶ちゃあーん? 怒ってるのーっ? ねえーっ? た、頼むから返事してえーーーっ……!?」

 結局胡蝶からは何一つ返事はなく、やがて虎之助は睡魔に襲われて夢の中へと誘われて行った――。

 暗幕の隙間から細く差し込む旭光を瞼に、雀たちの愛らしい囀りを耳に、微かに感じようか夢現。只今、人間の胡蝶と過ごした日常の夢を楽しんでいる虎之助は、その夢の中、突然誰かが首に抱き付いて来た感触を感じた。それにはっと胸を突かれた刹那、目前が漆黒の闇と化し、同時に人間の胡蝶の姿が泡沫のように消えて行く。

「――あっ……!」

 侘しさを感じ、人間の胡蝶がいた場所へと手を伸ばした虎之助。顔のすぐ下で、ふふっと高校生くらいの少女の含み笑いが聞こえ、己に抱き付いてきている者に目を落とした。
 漆黒の闇の中で、目映いばかりに浮き上がる白皙の顔――胡蝶の顔。人間の方? いや、一見人間の方と見間違えるが、この血のように紅い瞳は人形の方――

「こ、こらっ…! 今日は駄目だって言っただろっ……!」

 と、胡蝶に押し倒され、眉を吊り上げた虎之助。打ち付けられた背の下にはたしかに、踏んでも押しても凹まない黒く硬い地があるのに、痛みは感じない。その上その温度すら感じない、不思議な感覚だ。感じるのは、身体の上にある裸体の胡蝶――人形の胡蝶だけ。
 紅い瞳を除けば、その背丈も、重さも、肌も、球体関節の無くなったその手足も、夢の中ではまるで人間の女のように――人間の胡蝶のように化けている。だが、ただ一つ『体温』には違和感を覚える。どんなに柔らかな女の肌をしていても、それはビスクドールの――磁器人形の――冷たい肌だった。

「…虎之助……」

 その囁くような少女の声で虎之助を呼び、悪戯っぽく嬌笑を浮かべた胡蝶が、形の良い唇を虎之助に重ねる。

「だからっ……!」

 駄目だ、と虎之助は胡蝶の肩を持って突き放すが、胡蝶はその手を離して再び口付ける。愛情を求めて蠱惑的に絡んでくる舌は、他の誰でもないこの虎之助が胡蝶に教え込んだものであるが、こういう日ばかりは臍(ほぞ)を噛む。意思とは裏腹に膨張してしまった局部に、胡蝶の冷たい指先が触れた。

「…虎之助……」

 上体を起こした胡蝶にもう一度呼ばれたや否や、局部が濡れた冷たい肉に包まれたのを感じた虎之助。どこぞの人形作家がこの世に一点だけ生み出した、その妖艶な芸術品が、教え込んだ通りに己の上で身体を大きく上下に動かすのを見つめ、教え込んだ通りに局部を冷たい肉で締め付けて来るのを感じ……。やがて、必死に押さえ付けていた欲望を吐き出したいという思いが溢れ出してしまい、虎之助は堪らずと言ったように「ああ、もう!」と声を上げて胡蝶の身体を胸に抱き締めた。

「おまえはっ……!」

 と、身体を回転させて胡蝶を組み敷き、結局自ら堰を切ったように胡蝶の形の良い唇に吸い付く。

「おまえの今日の仕事は、家に残って洗濯だ!」

「…はぁーい……」

 とようやく主命令を承諾した胡蝶は、欲望のままに身体を動かし始めた虎之助を、勝ち誇ったかのような微笑で見つめていた――。

 ベッドで眠りながら、息苦しそうに悶えている虎之助の額に当てられている、白く小さな磁器の手。その手の持ち主――全長60cmほどの大きさのビスクドールである胡蝶は、虎之助の枕の脇に正座してした。虎之助が「うっ……!」と呻き声を上げて目を覚ますと同時に、虎之助の額から手を離し、恐る恐るといった風に己のボクサーパンツの中身を確認し、無言のまま顔を引き攣らせている虎之助の頬にキスをする。

「…おはよう…虎之助……」

「…………」

 そして虎之助が急いでシャワーを浴びている間にキッチンで手早く朝食と弁当を作り、朝食を掻き込むようにして胃に流し込んだ虎之助を仕事へと見送った後、胡蝶は洗濯機を回しながら満足そうに、ふふっと笑っていた。
 
 
 
 
「あのぉ、越前先生ぇ、女の子のあたしには分からないことがあるんですけどぉ」

 と、舞がやけににこつきながら、虎之助の腕に抱き付いたのは鬼百合学園高校の昼休みのこと。いつものように女教師たちに校内アナウンスで呼び出され、弁当片手にやれやれと長嘆息しながら校長室の方へと向かっていた虎之助は、相好を崩して舞の頭を撫でた。

「おー、舞。どうした、言ってみろ」

「あのぉ、『夢精』ってどんな感じするんですかぁ?」

 舞の後方にいた隆志が小恥ずかしそうに、「ちょ……」と舞を止めようと手を伸ばす一方、虎之助が答える。

「ああ、夢精なー。すげえ気持ち良いもんだぞー。夢精のために、わざわざ何日も射精しない奴もいるくらい。でも、対策しておかないと後処理が面倒で、特に時間のない朝とか焦る……って、舞ー?」

「はい、越前先生?」

「どうしてそんなこと聞いたー?」

「昨日、越前先生と胡蝶お姉ちゃんのこと、的場先輩から聞いちゃったからですぅ♪」

「ははは、そうか、やっぱりかー、そのことは忘れろなー、いいなー。はははははは」

 と、笑いながら虎之助が入って行った場所は校長室ではなく、ちょうど前を通り掛った放送室。それから十数秒後、鬼百合学園高校の敷地内にいる全生物の鼓膜を劈くような怒号の校内アナウンスが響いて来た。

「2年B組34番・的場大輝! 今すぐ保健室に来やがれ、こんのクソガキャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァーーーッッッ!!」

 それから数分後の保健室の中。隆志と舞の目前、顔面蒼白している大輝が怒髪天の虎之助に追い掛け回されている。

「ヒ、ヒィィィィィーーーッ! お、おおお、落ち着いてくれ兄貴ィィィィィィィーーーッッッ!!」

「っるせえ! よりによって舞に話すなんて、何考えてやがる! マジてめ殺ス!!」

「ご、ごめんってばぁぁぁぁ! 話の流れでそんなことになっちゃったから、ついぃぃぃぃぃ!!」

「つい、じゃねえ! バカヤロウッ!!」

 と、虎之助に捕まって胸倉を掴まれた大輝は、虎之助が振り上げた拳を必死に両手で押さえ付ける。ここで殴られたら、被害に合うのは己じゃない。己の、とてもとても大切なものが被害にあってしまう。そう思うと、普段は怪力の虎之助にまるで腕力の敵わない大輝なのに、自分でも驚く程の力が込み上げて来る。虎之助の拳が目の前数cmの距離まで迫って来るも、そこから少しも進ませない。

「た、頼むから止めてくれよ、兄貴っ…! おれの大切なものが――人形が、壊れちまうっ……!」

 数秒の間の後、ふんと鼻を鳴らして大輝を柔らかいベッドの上に突き飛ばした虎之助。デスクの上に置いておいた弁当を持つと、再び校長室の方へと向かって行った。

「今月、おまえに小遣いやーらね!」

 と、言い残してから。
 その次の刹那、保健室に響き渡った大輝の断末魔のような絶叫。隆志と舞が仰天して振り返ると、大輝はベッドに泣き伏していた。

「うっ、うっ、うっ…! そんな、そんな、酷いよ兄貴っ…! おれ、兄貴の小遣いなしじゃ、やって行けないのにっ…! うぅぅっ……!」

 という大輝に、思わず苦笑した隆志が口を開く。

「そ、そんな的場先輩、大袈裟な……。ご実家から仕送りあるんですよね? それにバイトもしてるんですから、きっと大丈夫で――」

「大丈夫じゃねえの!」と声高に言葉を遮った大輝が顔を上げると、隆志からすればどう見ても大袈裟だろうと突っ込みたくなるくらいに涕泣していた。「兄貴の小遣いがなかったら、愛香にネットオークションに出てるいい服を買ってやれねえの! 愛香、生前はお嬢様だったのに、そんなっ…そんなっ……うわぁああぁあぁぁあ! ごめんな愛香ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーっっっ!!」

 と慟哭し始めた大輝に、隆志は尚のこと苦笑してしまう。

「いや、ちょ、僕に――主に、まだ一着も服を買ってもらっていないアリスはどんだけ不憫なんだって話になるので止めて下さい、的場先輩。いや本当マジ……で…………」

 と思わず悄然としてしまった様子の隆志と、慟哭する大輝を交互に見つめた舞。「じゃあ」と破顔一笑して口を開いた。

「あたしと一緒に、ちょっとのお金で出来ちゃう手作りドレスに挑戦しーよぉっ♪」
 
 
 
 
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