第17話 人形の力 後編


 鋭利な刃物と化したガラス片が、隆志の左前腕の真ん中辺りを突き抜ける。

(――ああ、もう…駄目だ……)

 己は死出の旅へと出るのだ。ここ保健室で胡蝶に金縛りにされたまま、誰にも気付いて貰えず、助けて貰えず、間もなく出血多量で死ぬのだ。

(さようなら、皆……。舞、的場先輩…、アリスをよろし…く……)

 だが隆志の目前、不気味に笑んでいた胡蝶が、いつもの無表情に戻ってこう呟いた。

「…そう……。…あなた…ドールに守られているの……」

 その言葉で、隆志はふと大輝の言葉を思い出す。大輝は以前言っていた。人形は大切にすればするほど災いから持ち主を守ってくれる。身代わりになって守ってくれるのだと。そして、アリスも言っていた。隆志がアリスのオーナーとなった、あの日に――

 ――これからはわたしが必ず、ご主人さまをどんな災いからもお守りいたします。

 隆志ははっと胸を突かれた。

(痛く…ない……?)

 確かに、己の左前腕を突き抜けていったはずのガラス片。骨まで切断されしまったかのように思えた。だが、左前腕からは何の痛みも感じない。

(一体どうして…? まさか……)

 と、その時、保健室の引き戸がノックもなしに開かれた。

「おーい、帰るぞ胡蝶ー」

 と姿を現したのは、虎之助だった。隆志と胡蝶を交互に見つめ、息を呑んで声高になる。

「――何してんだ、胡蝶! 止めろ!」

 その声で、胡蝶の紅の瞳が隆志から虎之助へと移る。その途端、金縛りが解けた隆志の身体。床の上に、尻餅を着いた。すぐさま己の左前腕を見つめ、隆志は目を疑う。

(――ある)

 切断されてしまったかのように思えた腕が、ある。微傷だに負わず、たしかに、ある。

「おい、大丈夫か!? おい!?」

 と、隆志の首から下を触診する虎之助。どこも怪我していないと分かると、安堵の溜め息を吐いてこう言った。

「よくやった、アリス……!」

「え?」

「アリスが――おまえの人形が、おまえを守ったんだ。身代わりとなって」

 その言葉に、息を呑んだ隆志。鞄を持つのも忘れて保健室を飛び出した。1年生の校舎に戻らず、ここ2年生の校舎から上履きのまま飛び出して自宅アパートへと向かって全力疾走する。

「アリスっ……!」

 一方、保健室に残された虎之助は、床の上に落ちている隆志の鞄を拾い上げた後、浮遊している胡蝶に顔を向けた。”抱っこして”と寄って来た胡蝶の手を振り払って問う。

「どういうことだ、胡蝶」

 眉を吊り上げている虎之助の顔を見、怒気を帯びた虎之助の声を聞き、胡蝶は小首を傾げる。

「…え……?」

「鈴木隆志のことに決まってんだろ」

「…保健室で葉山悠二みたいな死に方は…不自然だと思って……リストカット装ってみ――」

「そんなこと訊いてんじゃねえ」と胡蝶の言葉を遮り、虎之助は声高になる。「おまえ、どうして鈴木隆志を殺そうとしたんだよ…!? 葉山悠二はともかく、鈴木隆志は人に害を与えるような奴じゃないはずだ……!」

 そんな虎之助の問いに、胡蝶は「だって」と答えた。

「…邪魔って…言ったでしょう……」

「は……?」

「…虎之助…言ったでしょう……。…鈴木隆志が邪魔だって…言ったでしょう……」

 そんな胡蝶の言葉に耳を疑った後、虎之助が思わず怒号する。

「――バカヤロウ!!」

「…ヤロウじゃない……」

「揚げ足取んな! 何言ってるんだよ、おまえ!? あんなの、本気で思ってる訳ないだろうが! それくらい分かるだろ!?」

 そう問う虎之助に、胡蝶は答える。「分からない」と首を振る。

「…あなたは鈴木隆志が邪魔だと言った……だから殺そうと思った……。…分からない……どうして怒っているの……分からない……どうして褒めてくれないの……分からない……」

 と解せない様子の胡蝶を見た虎之助は、ふと悲嘆に襲われた。これが、己が誰よりも何よりも愛した、あの虫一匹殺せないほど優しかった胡蝶だというのだろうか。これまでも何度かあったが、思わず疑心を抱いてしまう。

「なあ、胡蝶……おまえ、どうしちまったんだよ。なあ、胡蝶……おまえ本当に……」

 あの胡蝶なのか――?
 
 
 
 
 隆志が自宅アパート――ドールハウス・Bの駐車場へと辿り着くと、耳慣れた数人の男女の叫喚が響いて来た。

「離してください! 離してください! ご主人さまがっ…、ご主人さまがあっ……!」

 アリスの涙声だ。それが聞こえた方――アパートの2階へと隆志が駆けて行く途中、舞と大河の声も聞こえてくる。

「どうしたの、アリス!? 隆志がどうしたって言うの!? アリスっ!?」

「落ち着きなさい、アリス! 隆志さんのことは、あなたが身代わりとなって守った! 隆志さんは無事です、落ち着きなさい!」

 続いて、アリサと愛香の声も聞こえて来た。

「まったく隆志の奴、なーにやってんのかしら。ねえ、愛香お姉ちゃん? アリスの新しい前腕パーツ、隆志にすぐ買えると思う?」

「うーん。隆志はバイトしてない学生だし、どうだろうね。まあ、隆志がすぐに買えないようだったら、私が買ってやるから大丈夫よ♪」

「さっすが愛香お姉ちゃん! 頼りになるぅ♪」

 と、そこへやって来た隆志。201号室――大輝の部屋の前で、必死な様子の舞に抱き竦められているアリスを見つけるなり、駆け寄った。

「アリスっ!」

「ご主人さまっ! 大丈夫でございますか、ご主人さまっ!」

 と舞の腕の中から転げ落ちるように飛び出したアリスを抱き締め、隆志は狼狽しながらその左前腕を掴む――いや、掴めなかった。掴めたのはアリスの白いドレスの袖だけで、なくなっていた。虎之助の言葉で察していたが、アリスの左前腕の真ん中から下が、すっぱりと切れてなくなっていた。
 舞の足元にいた大河が、隆志を仰視して口を開く。

「アリスの力です、隆志さん。本来は主に降り掛かる災いを、身代わりとなって受け、そして守る――これが自分たち人形の力です。アリスは隆志さんの人形となって間もないというのに、よくやりましたね。隆志さんがアリスをとても大切にし、アリスがとても隆志さんを想っている証拠です」

「――ああ、アリス……!」

 と隆志が感極まってアリスと抱擁する一方、

「まあ、軽い傷を守る力まではまだないようですが……」

 と大河が、隆志のガーゼの貼られている頬を見て続けると、舞が「う……」と苦笑した。隆志にその軽い傷を負わせた犯人は己である。

「ご、ごめんね、隆志……殴って。アリスが怪我しちゃうなら、これからは気をつけなくっちゃ……」

「気にしないで、舞ちゃん。隆志が殴られたのは、自業自得だったのよ。男のクセに心が狭いから」とアリサは舞を慰めるように言った後、隆志の足元に歩み寄り、その顔を仰視して問うた。「ちょっと、隆志。あんた、アリスの新しい腕を買うお金はあるんでしょうね?」

「なきゃ私が何とかするから大丈夫よ」

 と続いて、隆志の足元に歩み寄った愛香。隆志が2人を俯瞰すると、その手には切り落とされて半分になったアリスの左前腕パーツと、手首の球体関節パーツ、ハンドパーツが持たれていた。それを見ながら、隆志は安堵する。

「…そ…そっか、量産されてる人形はいくらでも替えが利くんだ。良かった……」

「ええ、一箇所や二箇所ならいくらでも。バラバラになるまで壊れてしまったら、中から魂が抜け出てしまいますが」と言った後、半分になったアリスの左前腕パーツを手に取った大河。「えーと…、アリスやアリサの前腕パーツは……いくらでしたっけ?」

 と、愛香がいる方向へと顔を向けたが、その姿は忽然といなくなっており。どこへ行ったのかと大河が玄関から部屋の中を覗くと、それは大輝の寝室から出て来た。
 5千円札を手に持って。

「はい、隆志。あんた学生でバイトもしてないしお金ないでしょ? これで前腕パーツ買えるはずだから、早く買って来なさい。あと球体関節人形っていうのは、ボディの中に輪にしたテンションゴムっていうのが2本入っていて、それで各パーツがバラけないように繋いでいるの。1本目は、どちらか片方の足首からそれを通し、ふくらはぎ、膝、太股、腹部、胸部を通って首にあるSカンに引っ掛け、折り返してまた胸部、腹部、まだそれを通していないもう片方の太股、膝、ふくらはぎ、足首と通して繋ぐもの。そして2本目は、同じようにして腕と腕を繋ぐものよ。その2本目のテンションゴムが切れてしまったから、前腕パーツと一緒に買って来なさい。無いとアリスの両腕がパーツごとにバラけちゃうわよ。売ってるお店は分かるわよね? はい、いってらっしゃい」

「分かった、ありがと愛香さん!」と、愛香の手から5千円札を受け取ったのは舞だ。「あたしが買って来るから、隆志はアリスと一緒にいてあげて! 待っててね、アリス!」

 と、大急ぎでアパートの階段を下り、アリスの前腕パーツが売っている店へと駆けて行く。それを見送りながら、大河は愛香に問う。

「あの、お嬢さま。あの5千円札って……?」

「困った時はお互いさまだもの。いいのよ、大河」

「ああ、お嬢さま…! 自分は猛烈に感動しています……! お嬢さまがご自分のお小遣いを人助けのために使――」

「大輝のヘソクリだし」

「………………」

「さて、中に入って舞ちゃんの帰りを待ちましょ」

 と、愛香が最初に大輝の部屋の中へと入って行き、それにアリサが続き、アリスをひしと腕に抱き締めた隆志も続く。最後にそれに大河が続いてドアを閉めようとした時のこと。ドアが外側に引っ張られ、大河が「おおっと!?」と一驚した様子でよろけた。どうしたのかと隆志たちが後顧すると、そこには隆志の鞄を手に持った虎之助の姿があった。
 リビングダイニングに入り掛けた愛香が戻って来、隆志を背に庇うようにして仁王立ちし、怒気ムンムンとさせて問う。

「何の用よ、虎之助!? 隆志を殺そうとしたのって、あながちアンタのとこの胡蝶でしょ!? 殺し損ねたからって、アンタが隆志にトドメを刺しに来たわけ!?」

 そんな愛香の言葉を聞いたアリスが、隆志の腕から飛び降りた。愛香よりも更に前に立ちはだかって隆志を背に庇い、虎之助を仰視する。優しく微笑んだ造形の顔をしているアリスだが、内から放たれるその雰囲気から、虎之助を鋭く睨み付けているのだと分かった。

「させません。ご主人さまは、このわたしが守ります」

 そう言ったアリスの頭を、虎之助が身を屈めて撫でた。

「隆志を守ってくれてありがとな、アリス」

 と言って。アリスや愛香が「え?」と小首を傾げる中、虎之助が続けた。

「隆志の忘れ物――鞄を届けに来たんだ。でも、そのついでに……ちょっと中で、大輝の帰りを待たせて貰ってもいいか?」
 
 
 
 
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