第36話 ばいばい
リーナが目を覚ましたのは、ミカエル王子の腕の中だった。
「…ん……」
瞼を擦り、開けていくと、最初に瞳に映ったのはミカエルの胸元。
優しく包み込むように抱いてくれているミカエルの腕の中、頭上からその声が聞こえてくる。
「起きたのか? リーナ」
リーナがゆっくりと顔をあげると、そこには優しい笑顔がある。
「うん…、おはようミカエルさま……」
昨夜はミカエルの部屋に連れて来られたあと、ベッドの中でミカエルの優しい声を聞きながら、眠るまで泣いていた。
一昨日に続いて瞼は腫れてしまったが、リーナはすっきりした気分で微笑んでいる。
何だかとても、心が楽になった。
「よく眠れたか?」
「うん」
「そうか」
と笑ったミカエルの腕の中で額にキスされながら、リーナは愛されていることを実感する。
ジュリの前ではあまり言えなかった我侭も、ミカエルの前では言える。
「仕事終わったあと、少しの間でええから2人きりでいたいな」
「少しの間、だなんて寂しいことを言ってくれるな」
「ほな、たくさんや。それから休みの日はな、朝から晩までデートすんねん」
「ああ、そうしよう」
「舞踏会では、うちだけと踊らなあかんのやで?」
「分かった」
「あとな、ずっとずっと、うちだけに見惚れててな? 他の女に目を奪われたら絞めんで」
「それは気をつけなきゃな」
と言って笑ったミカエル。
ベッドから起き上がって訊く。
「朝食はどうする? 城で食べるか? あ、風呂も入るか?」
「せっかくお城に泊まったから、お城でご飯食べて行きたいな。それから薔薇風呂っちゅーのに入ってみたいわ」
「合点承知乃助! とりあえず目覚めの紅茶を持ってくるから、ちょっと待っててくれ」
「うん、ありがとう」
と笑い、ミカエルを見送ったリーナ。
ふかふかのもふもふなキングサイズのベッドから出て、窓辺へと向かって歩いていく。
昨日に続いて、今日も梅雨の中休み。
城の庭に咲いている夏の花々を、熱い太陽の陽が照らしている。
(リュウ兄ちゃんに謝まらな…、応援してくれたのにごめんって……。それから、ジュリちゃんに伝えなあかんことが……)
リーナはベッドの上に適当に置いておいた携帯電話を取った。
昨夜からテツオに乗ってリーナを探し、葉月島のあちこちを回っているジュリ。
世間の人々が通勤・通学する時間帯になったころ、ポケットの中で携帯電話が鳴った。
もしかしてずっと通じなかったリーナからかもと、急いでポケットからそれを取り出してみる。
だが、相手はリュウからだった。
「もしもし……、父上?」
「ああ。ジュリ、リーナの居場所が見つかった」
「えっ……!?」とジュリは携帯電話をしっかりと握りなおして訊く。「どこですかっ!?」
「ヒマワリ城だ」
「えっ…? お城っ……?」
ジュリを嫌な予感が襲った。
瞬時にミカエルの姿が頭に思い浮かぶ。
リュウが続ける。
「リーナからついさっき電話があってな。……リーナ自身が言ったわけじゃねーが、今日からおまえは俺かシュウ、カレン、サラ、リン・ランの弟子になってもらう。それを今から決めるから、とりあえず帰って来――」
「どういうことですか、父上」と、ジュリがリュウの言葉を遮った。「それって僕がリーナちゃんの弟子を辞めるってことですか、父上?」
「ああ……」
「どういうことですか? どうしてですか? 父上、教えてください! もしかして、もしかしてリーナちゃん、もう僕と会ってくれないのですかっ?」
間を置いたあと、リュウが再び口を開く。
「……まず、リーナはこれからも家に顔は出す。毎月行われる誰かの誕生日パーティー等には、今まで通り必ず来るよう俺が命令した。あいつのことは、みんな家族と代わり無い存在に思ってるからな。だからジュリがリーナと会えなくなるというわけじゃない。……それにな、ジュリ」
「は、はい……?」
「一度失ったものはそう簡単に戻ってきてはくれないだろう。でもな、本当に大切なものなら追い掛けて、また手に入れればいいんだ」
「…う…失ったものって……」
ジュリの声が震える。
(失ったものって、まさかリーナちゃんのこと……?)
そう思うと、とてつもなく怖かった。
リュウとの電話を切り、テツオを急いでヒマワリ城の方へと向かわせる。
ヒマワリ城の門のところでジュリがテツオから降りたとき、黒猫の耳がミカエルの明るい声を捕まえた。
「リュウが今日も休みくれたし、昨日に続いてチャリンコ2ケツデートするか♪」
続いてリーナの声。
「チャリ2ケツはあかんのやで。今日はな、瞬間移動使わんでお散歩デートすんねん」
2人のそんな会話に、ジュリの胸が痛みをあげた。
(失ったものって、失ったものって、やっぱり……!)
やがて手を繋いで現れた2人。
その姿が、瞳に溜まった涙でぼやけている。
「リ…、リーナちゃ……!」
と呼んだジュリの声に、はっとしたリーナとミカエル。
門から出る数歩手前で立ち止まった。
「ジュリちゃん……」と呟くようにリーナが言い、ミカエルの手を離してジュリの前へと歩いて行く。「良かった、あとで会いに行こうと思ってたん」
「リ、リーナちゃん、僕――」
「さっきリュウ兄ちゃんから聞いたで、ジュリちゃん」と、リーナがジュリの言葉を遮った。「ローゼさまとの結婚、止めたんやて?」
「う、うんっ…。僕、もうリーナちゃん以外の女の子と結婚するなんて言わないよっ……! だから――」
「ジュリちゃん」と、リーナがもう一度ジュリの言葉を遮る。「うちな、決めたことがあんねん。そのこと、ジュリちゃんに言わなあかん」
「…リ…リーナちゃ……」
ジュリの大きな黄金の瞳が揺れ動く。
リーナの言葉の続きを聞くのが、とてつもなく怖かった。
聞きたくないと、首を横に振る。
「や…やだよ、リーナちゃん……!」
だけどリーナは、ふと微笑んで続ける。
「ジュリちゃん、うちな、小さい頃からジュリちゃんといられて、めっちゃ楽しかったで。ありがとうな、ジュリちゃん。ありがとう。けどな、もうな……」
「や、やだ…! リーナちゃんっ…、やだっ……!」
ジュリの瞳から涙が溢れ出すと同時に、リーナ瞳からも涙が一粒零れ落ちる。
「もう、うち、あかんみたいや。一緒にいて幸せになれるのは、ジュリちゃんやなくてミカエルさまだったみたいや。せやからな、ジュリちゃん……」
「やだ! やだってば、リーナちゃん! 僕は――」
「もう、ばいばいや」
「――」
ばいばい。
ばいばい。
ばいばい。
ジュリの頭の中で木霊する。
誰よりも好きなリーナの言葉。
もう会えなくなるわけじゃない。
だけど、とても悲しく響く。
物心付いたときからいつも傍に居てくれたリーナの、心の別れの言葉。
頬を伝った涙を手の甲で拭い、リーナがジュリの脇を通り過ぎて行く。
「――まっ、待ってリーナちゃん!」
と叫び、ジュリはリーナを捕まえようと手を伸ばす。
だがその手は、ミカエルに手に遮られてしまった。
ジュリははっとして傍らに立っているミカエルを見上げる。
睨むように見下ろされていた。
「リーナに触れないでくれ、ジュリ」
「――」
ミカエルがリーナの後を追い、その手を取って去っていく。
だんだんと小さくなっていくリーナの背を見ながら、ジュリは悲痛な泣き声をその場に響かせた。
「待って、リーナちゃん! 僕っ…、僕、リーナちゃんのこと好きだよっ……! お嫁さんになってほしいよ、リーナちゃん! お願い、行かないで! リーナちゃんっ! ねえっ、リーナちゃんっ!!」
だが、リーナが振り返ってくれることは無かった――。
リーナに別れを告げられたのは昨日のこと。
ジュリはあのあと自宅屋敷へと帰ってきて以来、自分の部屋に閉じこもって泣いていた。
本当はもういないはずだったローゼと擦れ違ったが、ジュリのその瞳には映らなかった。
(ない……)
ベッドに横臥して、ジュリは胸に手を当てて探す。
(心の一部が、ない……)
そんな感じがした。
胸にぽっかりと穴が空くなんて言葉は聞いたことがあるが、こういうことなのだと身を持って知った。
残ったものは、寂しさと虚しさだ。
「ふみゃあぁぁんっ…、リーナちゃあぁぁんっ……!」
と再び泣き始めたジュリの声は、部屋の外にまで聞こえていた。
ジュリが心配でその部屋の前に立っている家族一同とローゼ。
これから仕事や学校などに行く準備をしなければならないというのに、足が動かないでいた。
「ああ…、俺の可愛いジュリがこうなってしまわないよう、ジュリがリーナに会いに行く前に言っておいたんだがな……」
と落ち込んだ様子のリュウに、シュウが訊く。
「言っておいたって何て?」
「一度失ったものはそう簡単に戻ってきてはくれないが、本当に大切なものなら追いかけてまた手に入れればいいって」
「だよなあ……、オレも昔そんなこと頑張ったな」
と苦笑するシュウの傍らで、カレンが笑う。
「そうねえ、あなた。あたくし一時は本当にあなたから心が離れて♪」
「あ、あんまり言わないでくれハニー……」
「思えば、あなたとジュリちゃんって兄弟って感じね。同じ失敗するなんて」
「だねえ」と、サラが呆れたように溜め息を吐く。「優しいが故にっていうか、バカが故にっていうか? 本当に大切な人を見事に失うその姿に失笑しちゃうよアタシは。……って、おっと」
と、サラが後ろめたそうに俯いているローゼの頭を撫でた。
「あんたはなーんにも悪くないからね、ローゼ。気にするんじゃないよ?」
「は…はいですにゃっ……」と、ローゼが頷く。「で、でも、ジュリさんが心配ですにゃっ……」
「きっと大丈夫だ、ジュリは。オレに似てるってんなら、ジュリもきっとまた大切な人をその手に入れられるはずだ」
そんなシュウの言葉に、同意して頷いた一同。
キラが意を決したように声をあげる。
「よし! ここは私たちの出番ぞ! 1人1つ、ジュリがリーナを取り戻せる作戦を考えようではないか!」
キラのそんな提案に、一同が顔を見合わせた。
その後、そうすることになった。
その瞬間、熊……じゃなかった。
グレルが張り切ったように手を上げた。
「はいはいはいはーい! 1番バッターはオレだぞーっと♪」
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