第51話 リュウ


 テレビの画面。

 文月島タナバタ山。
 首を激しく振り、何かを振り落とそうともがいている真っ黒な最強ドラゴン――バハムート。
 突然、巨大な爆発に包まれた。

 文月町にセットされていたカメラが吹き飛ばされ、画面に砂嵐が流れる。

 床に這いつくばり、泣き叫んでいるミーナ。
 必死に声を殺して泣いているレオン。

「な…」砂嵐を呆然と見つめながら、リュウの声が震える。「なんで…ブラックキャットの破滅の呪文が……?」

 リュウと同様、呆然としてテレビの砂嵐を見つめていたリンク。
 ミーナとレオンに顔を向けた。

「ど…、どういうことや?」リンクの声も震えていた。「ど、どうしてバハムートが、破滅の呪文で……? な、なあ、ミーナ。レオン? キ…、キラは? キラはどこ行ったんっ……?」

 主の質問なんてまるで聞こえた様子なく、ミーナは泣き叫んでいる。
 キラの名を。

「…なあっ、おい!!」リンクはレオンに駆け寄り、その肩を握った。「レオン!! キラは!? キラはどうしたん!? まさかっ…まさかさっきの破滅の呪文は……!?」

「…キラ…だよ……!」

「――」

 リンクは息を飲んだ。

 そんな。
 そんなバカな。
 キラはバハムートのことを、知らなかったはずだ。

「んなわけ…ねえだろ」

 リュウの震えた声。

 リンクは振り返った。

 リュウの震えた手。
 震えた膝。

「んなわけ…ねえんだ。だってキラはこれから俺にエンゲージリングもらって、人間とモンスターが結婚できるようになったって知らされて、それできっと大喜びするんだ。それでっ…、それで来年の2月には俺と結婚して、子供産んで、家族みんなで幸せに暮らすんだぜ……? キラのわけがねえ…、キラのわけが……」

 リュウの黒々とした瞳が恐怖に満ちる。
 レオンはそれから顔を背けながら、もう一度言う。

「あの破滅の呪文は、キラだよ……!」

「――」

 違う。
 そんなわけがない。

 違う。
 キラのわけがない。

 リュウは心の中、必死に否定する。

 同様に現実が飲み込めないリンクが言う。

「キ、キラのわけがないやんか? だ、だって、知らなかったはずや。バハムートが現れたなんてっ……」

「キラは、何もかも知ってたんだ。リュウとグレルが呼び出されて、リンクが呼び出された。キラは異変を感じて、聞いていたんだ。クリスマスの日、リュウとグレル、リンク、それからギルド長が話していたことを」

「――」

 違う。
 違う。
 違う。
 キラじゃ、ない。

 リュウの身体ががたがたと震える。

「そ…、そうか、キラはそれで破滅の呪文を……」じわりじわりと込み上げてくる現実に、リンクが声をあげる。「なんでっ…なんで止めなかったんや!! なあ、ミーナ!! レオン!! なあ、なんで――」

「僕だって!!」レオンがリンクの言葉を遮った。「僕だって、ミーナだって、そうした!! 僕もミーナも、キラと同じ力を持っていたなら同じことをした!! 大切な仲間を守るために、何より主を守るために、そうしたんだ!! あなたたち人間は何も分かっていない!! あのバハムートが、どれだけの力を持っているか……!! キラしかっ…キラしかできなかったんだ!! キラしかっ…キラしか――」

「レオン」リュウがレオンの言葉を遮った。「やめろ、レオン。やめろ。やめて…くれ。キラじゃねえ。キラじゃ、ねえんだ……!!」

 そう、キラのわけがない。
 俺の可愛いキラのわけがない。
 そんなの、現実じゃない。
 夢だ。
 夢なんだ。

 RRRRR…

 突然リビングに響いた、リュウの何の変哲もない携帯電話の着信音。
 慌てて出たのは、リンクだった。

「も、もしもし…!? ギルド長!?」

「リンクかい? リュウに…、リュウに代わってくれ……」

 涙に声を詰まらせた葉月ギルド長の声。

「――」

 全てが現実なのだと、はっきりと確信した。
 リンクの身体が震える。
 リュウに、この電話を渡したくない――。

 だがリュウが、リンクの手から携帯電話を奪った。

「も、もしもし…」

「リュウ…、ごめん…、ごめん……!」電話の向こう、嗚咽するギルド長。「あの子を…、キラちゃんを止められなかったよ……!!」

「――」

 リュウの手から携帯電話が落ちた。
 握られていたキラへのエンゲージリングが落ちた。
 がくがくと震えた膝が、床の上にがくんと落ちた。

 両手を床に着け、身体を支える。

「ち…ちがう……! キラじゃねえ……! キラじゃ、ねえ!! キラじゃねえ!! キラじゃ……!!」

 物心がついてから初めて零れ落ちた、リュウの涙。
 ぽたりぽたりと床の上に落ちる。

 リュウの脳裏に浮かんできた。

 クリスマス・イヴにキラが言った言葉。

『人間は本当にどうしようもなく追い詰められたとき、神に頼むのだな』

 ああ、そうだな。
 そうだな、キラ。
 あのときは鼻で笑ったが。
 神なんていないって、笑ったが。

 そうだな、キラ。
 そうだな――。

「――神…様……!!」

 助けて。
 俺から、キラを奪わないで――。

 リュウは気を失った。
 
 
 
 リュウは5日間、目を覚まさなかった。
 キラが破滅の呪文を唱えた次の日――去年の最後の日の朝、葉月ギルド長がテレビカメラの前で全てを話した。
 キラという1匹のブラックキャットが、己の身を犠牲にしてこの世を救ってくれたのだと。
 全島で放送されているカメラの前、葉月ギルド長は泣き崩れた。

 雑誌『NYANKO』が黙っていられるわけもなく、葉月町の中央にキラの墓が作られた。
 銅像が作られた。
 リュウの意思も、編集者であるグレルの意思も、あってもなくても作られていただろう。

 キラはこの世の英雄となっていた。

 キラの墓の前、供え物が山のように重なっていく。
 すすり泣く者が絶えない。
 リンクもミーナも、グレルもレオンも号泣した。
 葉月ギルド長も、愕然として駆けつけた王子も、人目を気にせず何時間も泣き続けた。

 そんな中、最初に涙を拭ったのはグレルだった。

「おまえら、精一杯生きろ。何のためにキラが命を使ってくれたと思ってる」

 墓の前でそう言い、リンクたちの涙を拭わせた。

 傍らで聞いていた葉月ギルド長と王子も、それを聞いて立ち上がった。
 皆で向かったのはリュウと、それからキラのマンション。

 気を失ってベッドに寝かされているリュウを見て、葉月ギルド長が再び泣き出した。
 王子の声が震えた。

「ええい…! これがっ…これが、葉月島を代表する超一流ハンターの姿か! 起きろ! 起きろ、リュウ!!」

「王子っ!」

 リュウの身体を強引に揺する王子を、リンクが慌てて止めた。
 リンクに押さえられながら、王子は叫んだ。

「おまえが弱い男だということは知っている! キラがいなければ駄目な男だということは知っている! だが…だが、このまま死ぬようだったら許さぬからな!! キラは何よりもおまえの命を救うために、己の身を犠牲にしたのだ!! 許さぬからな!! このまま死んでしまったら、許さぬからなっ……!!」

 零れた涙を拭い、帰って行った王子。

「リュウ…ああ、リュウ……!」リュウの顔を見ながら、ギルド長も言った。「頼むから死なないでくれよ、頼むから……!!」

 葉月ギルド長と王子がリュウを訪ねて来たのは、3日前のこと。

 気を失って5日目。
 ようやくリュウは瞼を開けた。

「リュウっ…!」

 そのとき傍で看病していたミーナとレオンは、慌てて立ち上がって寝室から出た。
 2匹でリンクを呼ぶ。

 リュウが目を覚ましたと。

 リュウが気を失ってからずっと寝泊りしていたリンクと、ミーナ、グレル、レオン。
 雑誌『NYANKO』の編集者であるグレルはキラのことで仕事が忙しく、寝る暇なく仕事へと向かっている。

 そのときテラスに洗濯物を干していたリンクは、手に持っていた洗濯物を放り投げて寝室へと向かった。
 ミーナとレオンもそのあとに続く。

「リュウっ…!」

 リンクは笑顔になって、リュウに駆け寄った。

 ほっと安堵した。
 このままリュウが目を覚まさなかったらどうしようと、不安に駆られていたから。

 リュウの黒々とした瞳が、ゆっくりとリンクの瞳を捕らえる。

「リンク……」

「大丈夫か、リュウっ? 大丈夫かっ…!?」

「キラは……?」

「えっ…?」

「俺の可愛いキラは……?」リュウが上半身を起こし、寝室の中を見回す。「どこ行った……?」

 リュウがベッドから立ち上がろうとしてよろけ、リンクは慌てて支えた。
 リュウが寝室から出て行く。

「リュウっ…?」

 リンクとミーナ、レオンは困惑しながらリュウを追った。

 リュウが武器倉庫にしている部屋を覗き、キラの衣裳部屋になっていた部屋を覗く。
 バスルームを覗いて、キッチンを覗く。
 リビングを見渡し、テラスへと出た。

「なあ…、俺のキラは……?」リュウがリンクたちに振り返った。「買い物行ったのか…? それとも散歩…? 王子が連れまわしてるのか…? なあ…、俺のキラは……?」

「…っ……!」

 涙が込み上げてきて、レオンは口を手で押さえた。
 リュウの姿に、涙が零れ落ちる。

(リュウは、弱かったんだ……!)

 リュウは強い者だとばかり思っていた。

 でも、本当は弱かったのだ。
 現実を受け入れられないほど。
 とてもとても、弱かった。

 ミーナが突然走り出し、キラの赤い首輪を持って戻ってきた。
 リュウに突き出し、声をあげる。

「これを見ろ、リュウ! 見ろ! キラはもういないのだ!」

 リュウがキラの赤い首輪を手に取り、短く笑う。

「バカ言ってんじゃねーよ、ミーナ。俺の命令なしに、キラがどこ行ったってんだ……」

「あの世だ! キラはわたしたちを、おまえを守って死んだのだ!」

「んなわけ――」

「キラは死んだのだ!! キラは死んだのだ!! もう、この世にはいないのだ!! キラは死ん――」

「黙れ!!」リュウの怒声が、ミーナの声を遮った。「黙れ、ミーナ!! 黙れっ…黙れ……!!」

 リュウが頭を抱える。

「キラはっ…キラは死んでなんかねえ……! 死んでなんかねえんだ!!」

「キラは死んだのだ!! キラは死んだのだ!! キラは死んだのだ!!」

「黙れ!! 黙れミーナ!!」

「キラは死んだのだ!! キラは破滅の呪文を使って死んだのだ!! わたしたちを守って死んだのだ!! キラはこの世に骨も残さずに消滅したのだ!! キラは死ん――」

「黙れって」リュウが拳を振り上げた。「言ってんだろうが!!」

「リュウ!!」

 リンクがリュウの身体を押さえつけ、リュウの拳が大きな手に握られた。
 一同がはっとして顔を上げると、そこにグレルが立っていた。

「……リュウ」

 グレルがリュウの腕を引き、リビングへと引っ張って行った。
 グレルの拳がリュウの頬を殴打する。

「リュウ!!」

 リュウの身体がソファーの上に飛び、リンクは慌てて駆け寄る。

「どけ、リンク」

 グレルが言い、リンクの身体を後方へと下がらせた。
 グレルの拳が、再びリュウの頬を殴打する。

「目を覚ませ、リュウ。いつまでも現実逃避してんじゃねーぞ。キラは、もう死んだんだ」

「…何すか、師匠まで」リュウが短く笑った。「勘弁してくださいよ、もう。キラは死んでなんかねえんだ」

「世話の焼ける弟子だな、おまえは」

 そう言うなり、グレルが再びリュウの頬を殴打する。

「ってえな、この……!!」

 今度はリュウの拳がグレルの頬を殴打する。
   曲がった顔をリュウに戻し、グレルが溜め息を吐く。

「んなやつれた身体したおまえの拳なんて、痛くも痒くもねーっての」

 そして再び、グレルの拳がリュウをソファーの上に飛ばした。

「目を覚ませ、リュウ。現実から目を背けるんじゃねえ。そして立ち上がれ。キラは、死んだんだ」

 やめてくれ、師匠。

 心の中、リュウは懇願する。

 やめてくれ、師匠。
 やめてくれ。

「リュウ。キラは死んだんだ。『破滅の呪文』を唱えてオレたちを守ってくれたんだ。キラはもう、この世にいねーんだ」

 やめてくれ。
 やめてくれ、師匠。

 もう、それ以上何も言わないでくれ。

「リュウ。キラは死んだんだ」

「…やめて…くれ……!!」

 リュウの瞳から涙が溢れ出す。

 やめてくれ。

 俺を、現実に戻さないで。
 そこは、真っ暗で。
 怖いんだ。

 怖い。
 怖い。
 怖い。
 怖い……!

  「もう、やめてくれ!! 怖いっ…怖いんだよ!!」

 泣き叫んだリュウ。
 頭を抱えて発狂する。

「…リュウ……!!」リンクが必死にリュウを抱き締めた。「師匠、もうやめてやっ…! やめてや、師匠!」

 リンクの瞳から涙が零れる。

「もう、もうやめてや、師匠!! お願いやから!! お願いやからっ……!!」

 リュウが崩れてしまう。
 リュウが壊れてしまう。
 リュウが死んでしまう。

 リンクは必死に訴えた。

 リュウに、現実を突きつけないで。
 リュウは、キラを失って生きていけるほど強くない。

「神なんかっ…」リンクの腕の中、リュウが叫ぶ。「神なんか、やっぱりいねーじゃねーか!! 助けてって言ったのに!! 俺からキラを奪わないでって……言った…のに……!!」

 ああ。
 リュウが崩れていく。
 壊れていく。
 死んでしまう。

(神様……!)リンクは心の中で叫んだ。(助けて……!!)

 そのときだった。

「――」

 リュウは、ふと頭を上げた。

 何だ、今のは。
 ふわりと、頭に優しいものを感じた。

 今の感覚、知っている。
 覚えている。

 一度だけ感じたことがある。
 あの、文月島タナバタ山の麓で。

 キラの、父の墓の前で。

「義父上……?」

「え…?」

 リンクとミーナ、グレル、レオンがリュウの顔を見つめる。

 次の瞬間、リンクの携帯電話が鳴った。
 葉月ギルド長からだ。

「も、もしもし」

「リンク、リュウは目を覚ましたかい!?」

 聞くからに平常じゃないギルド長の声と、慌ただしい雰囲気。
 静まり返ったリビングの中にも、その声は響いてきた。

「はい、先ほど目を覚ましました」

「それなら早くっ…」

「え?」

「早く葉月病院に来て!! キラちゃんがっ…キラちゃんが崩れた山の中から見つかったよ!!」
 
 
 
 リュウとリンク、ミーナ、グレル、レオンは葉月病院の中を走っていた。

「リュウ! キラ、生きてたんや! 消滅せずに生きてたんや!」

 リンクは言いながら、リュウを支えて走った。
 皆もそう思っていた。
 キラは生きているのだと。

 手にキラの赤い首輪とエンゲージリングを握り、リュウはやつれた身体を走らせる。

 ギルド長の話だと、キラの病室は305号室。
 息を切らせながら3階まで駆け上がり、3階の廊下を走る。

 305号室の場所はすぐに分かった。
 その病室の前に、ギルド長やゲールなどの文月島ハンターたちが集まっていたから。

「ギルド長!」

 笑顔で読んだリンク。

 ギルド長がリュウたちの顔を見、苦痛の顔をして俯いた。
 ゲールたちハンターも、同じような顔をしてリュウたちから顔を逸らす。

「え…?」

 リンクの笑顔が消えた。

(なんやねん、この反応……)

 ゲールがキラの病室の引き戸を引いた。

「…ハンター・リュウ…」

 呼ばれたリュウが、ゆっくりと病室に入っていく。

「おれたちも――」

 おれたちも行く。

 そんなリンクの言葉を遮るように、病室の一歩手前でゲールがリンクたちの前に手を伸ばした。
 中に入るなと。

 病室の中を覗き込み、ミーナが笑顔になる。

「キラっ…!」

「――」

 リンクは息を呑むと同時に、ミーナの目を塞いだ。
 同様に、グレルもレオンの目を塞いだ。

「な、なんだリンクっ…!? 何故目隠しをするっ…!? あれはっ、あれはキラではないかっ……!」

 そう。
 あのガラスのような髪の毛は、間違いなくキラだ。

 でも――

「ミーナ…」グレルに塞がれた手の中、レオンの涙が零れ落ちる。「キラ…、死んでるよ……!」

「えっ…?」

 胴の上で組まれたキラの手。
 顔に被せられた白い布。

(なんやねん…、なんやねん、神様……!)

 リンクの瞳から涙が零れた。

「ぬか喜びさせんなや! なんやねん、なんやねん、この仕打ち! リュウが何したっちゅーねん!!」

 キラの病室の前、リンクたちの泣き声が響く。

 病室の中、リュウがキラの顔にかけられた布に触れる。

「キラ……?」

 キラの顔から、そっと布が取られた。
 
 
 
 
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