第35話 記憶喪失〜その4〜
――昨夜のこと。
キラはリュウたちに連れられて、以前住んでいた山から戻ってきた。
失われたキラの記憶を戻すために、葉月町にあるリュウ・キラ宅へと。
ミーナの瞬間移動でテラスへと送ってもらって、キラは割れたままの窓ガラスからリビングの中に入り、中を見て歩いた。
2つの3人掛けソファー。
手のひらをつけると冷たいガラステーブル。
壁に飾られている額縁に入った謎の絵(キラ作:リュウ画)。
ダイニングキッチン。
リビングから廊下へと出て、他の部屋も見て回った。
リュウのものだろう武器だらけの部屋。
キラのものばかりだろう洋服だらけの部屋。
トイレとバスルーム。
それから、寝室。
ベッドに寝転がってみて、キラは言った。
「…この寝心地、知っている気がする。他の部屋も、そこらにあったものも、全て知っている気がする。どれ一つ、覚えていないのに」
「そう……か」リュウが言いながら、ベッドに腰掛けた。「完全に忘れてないなら、きっといつか思い出せるはずだ」
「うん……」
「さて」
と、リュウが背後に寝転がるキラを挟むようにして、両手をベッドにつけた。
「な…」キラの頬が熱くなった。「何する気だ、リュウ」
「俺のこと好きな記憶あるっていうから、抱こうかと」
「いっ…嫌だっ……!」
「怖いのか?」
「ち、違うっ!」
「安心しろ、さすがにいい加減痛くねえ」
「そ、そんなこと言っているのではないっ!」
「何だよ」
「はっ…」キラがリュウから目を逸らす。「恥ずかしいっ……!」
「燃えるし」
「なっ――」
キラの唇が塞がれた。
リュウの唇に。
驚いて唇を放したキラに、リュウが言う。
「本当に嫌だってんなら、俺を爪で切り裂いて抵抗しろ」
そう言いながら、リュウがリモコンで部屋の電気を消した。
夜目が利くキラの黄金の瞳には、はっきりとリュウがシャツを脱ぎ捨てるのが見えた。
キラの顔が真っ赤に染まる。
「お、おま…、ちょ、ちょっと色っぽすぎるぞっ……!」
「おまえには負ける。…んしょっと」
「え!? ちょっ、ちょちょちょっ…! えっ、あっ…、えぇーーーーっ!?」あっという間に服を脱がされ、キラは半ばパニックになりながら首まで赤く染めた。「なっ…なんっって慣れた手付きで女の服を脱がす奴だおまえはっ!!」
「だっていつもだし」
「ドスケベがっ……!」
キラは両腕で必死に胸を隠した。
リュウに抱き締められて、動悸が激しくなる。
「もう一度言うけど、本当に嫌だったら俺を爪で切り裂け。牙で肉を引きちぎったって構わねえ。そうでもされねーと止まらねーからな、俺は」
そう言うなり、リュウがキラの唇を再び奪う。
「…っ……!」
キラはリュウの胸を押したが、そんなのは抵抗として判断されない。
顔が熱い。
黒猫の耳が熱い。
唇が熱い。
胸が熱い。
心臓が爆発しそうだ。
舌が捕らわれる。
甘い味がする。
身体の力が抜けるようなこの感覚、知っている。
覚えていないのに。
リュウの手が、胸を押さえているキラの腕に触れる。
「ほら、離せ」
「…いっ…嫌だっ……!」
「嫌だったらどうしろって言った、おまえの主は」
爪で切り裂けと言った。
牙で肉を引きちぎっても構わないと言った。
それはこのキラにとって、やろうと思えば簡単なこと。
言われなくたって、嫌だったらそうしている。
でも、出来ないキラがいる。
「嫌だっ…嫌だっ……!」
口で抵抗したところで、何の意味もない。
キラが必死に隠していた胸が、リュウに露わにされた。
部屋の中が暗いのが、せめてもの救い。
でも、人間だって慣れれば見えるはず。
闇に浮き出る、このキラの白い身体が。
見るな。
見るな、リュウ。
恥ずかしくて死にそうだ。
あちこちにリュウの手を感じる。
唇を感じる。
身体が熱い。
この感覚、知っている。
触れられたところに敏感に感じる刺激。
強引なようで、優しい主の愛撫。
知っている。
覚えていないのに。
身体がおかしくされる。
心がおかしくされる。
リュウの背に手を伸ばし、その胸にしがみ付く。
昨夜そうやって求めたのは、キラの方だった。
ほしかった。
主の愛が。
知っていた。
リュウの腕の中で感じる衝撃。
リュウの荒々しいともいえる息遣い。
リュウの口に名を呼ばれるほどに熱くなる胸。
知っていた。
全て知っていた。
分かった。
嫌でも伝わってきた。
己はこの上なく、この主に愛されているのだと。
己はこの上なく、この主に幸せにされていたのだと。
分かった。
分かった。
分かった。
でも、覚えていない。
何も、覚えていない――。
「…お、おいっ……!」キラを抱き終わったあと、キラが泣いていることに気付いたリュウは狼狽した。「な、なんだよっ? い、嫌だったら俺を切り裂けって言ったじゃねーかよっ?」
首を横に振って、キラは声をあげる。
「思い出したいっ…! 思い出したい! 私はっ、私は幸せだった! それは確信できる事実だ! 思い出したい……!」
「落ち着けっ…、落ち着け、キラ」
リュウは慌ててキラを抱き締めた。
また無理に記憶を戻そうとして、キラが苦痛を味わうところなんて見たくなかったから。
「落ち着け、キラ。きっと大丈夫だ。記憶は戻るはずだ。もし戻らなかったとしても、俺は変わらずおまえを幸せにする。…大丈夫だ、キラ。大丈夫だ」
優しいリュウの声。
優しいリュウの腕の中。
キラは頷いて瞼を閉じた。
愛する主の中で、幸せな夢を見よう。
そう思いながら。
が、しかし。
「キラ」リュウがキラの黒猫の耳にキスした。「2回戦の時間」
「へ?」
「1回や2回、3回で終わるかよ」
「はっ?」
「反応が初々しくてたまんなかったぜ、まったく」と、リュウがにやりと笑ってキラの上になる。「今夜は朝まで寝かせねーよ?」
「――!?」
この、ドスケベ主が。
現在。
翌日の昼過ぎ。
(まさか本当に朝まで寝かせてもらえないとは思わなかったぞ…)キラは顔が引きつりそうになりながら、瞼を開けた。(おかげで、夢の中でも抱かれていたではないか、この男に)
と、キラは顔を上げた。
この男=リュウ。
もう目を覚まして、キラが起きるのを待っていたようだった。
「オス、俺の可愛い黒猫。このベッドはよく眠れたか」
「…ふんっ」リュウの腕の中、キラは少し頬を染めながら背を向けた。「疲れてぐったりしてよく眠れたぞ、私のドスケベ主っ!」
「何怒ってんだよ」
「とんでもない主だ、おまえはっ。朝になってやっと寝ることができたと思ったら、何故夢の中でまでっ……!」
「何だよ、キラ。夢の中でも俺に抱かれてたのか? そーかそーか、そんなに良かったのか。仕方ねーな、俺の黒猫は。目覚めに可愛がってやるか」
「お、おい!? 朝から何する気だ!?」
「もう昼だぜ」
「揚げ足を取るな!」
「明るいとよく見えていいよな」
「ふっ、布団を取るなあああああああああああ!!」
「おい?」と、そこへ寝室のドアを開けて現れたリンク。「何騒いで――ってぇーーー!?」
面食らって寝室のドアを閉めた。
寝室の外から言う。
「リュ、リュウ! お、おまえって奴はっ!! キラの記憶が戻ってへんっちゅーのに、何してんねん!!」
「俺のことが好きだっていう記憶は残ってんだからいいんだよ」
「ケ、ケダモノめっ……!」
「うるせー。何の用だ、リンク」
「連れて来たで」
「誰を」
「ゲール」
「――!」
ゲール。
その名を聞いて、リュウはすぐさまにキラに服を着させた。
自分も急いで着て、キラの手を引いて寝室から出る。
リュウに手を引かれ、一体何事かと眉を寄せていたキラ。
リビングまで引っ張られていって、ソファーに座っている、前髪で顔が半分隠れている男――ゲールの顔を見るなり、尻尾の毛が立った。
「…っ……!!? シャアァァァァーーーーーッッッ!!!」キラはリュウの背に隠れながら、ゲールを威嚇した。「お、おおおおい、だ、だだだ、誰だそれは!? 何だかえらく寒気がするぞっ!!」
「だろうなぁ」と、リンクと一緒に来ていたミーナが言った。「この男はゲールと言って、キラが大の苦手だった男だぞ」
「だ、大の苦手!? そ、そそそ、そんな男が、わ、わわわわ、わたっ、私に何の用だ!」
「まぁまぁ、落ち着けやキラ」と、リンクがキラを宥めた。「ゲールは、キラの記憶を戻す方法を調べてきてくれたんやで」
「えっ…?」
キラはリュウの顔を見上げた。
リュウが言う。
「そういうことだ、キラ。こいつからもらった薬のせいで、おまえの記憶がなくなっちまってよ。責任持って調べさせてたんだ」
「…ふふふ…」ゲールが口を開いた。「…遅くなって申し訳なかったね…。…記憶を戻す方法は、調べればすぐに分かった…」
「てめ…」リュウの顔が引きつった。「だったらすぐ教えろってんだよ…!?」
「…そうしたところで、君たちでは出来ないと思ってね…。…私が技を習得してきたよ…」
「技、だと?」リュウは眉を寄せた。「てめーに出来て、俺にできねーとでも抜かすのか」
「…君が一番できないのではないかな…」
「あ!?」
「お、落ち着けや、リュウ」リンクはリュウを宥め、ゲールを見た。「ほいで、ゲール。あんた、その技を身につけてきたんなら、今すぐキラの記憶を戻せるんやなっ?」
「…もちろん…」と、ゲールがソファーの脇に置いておいた大きな袋をガラステーブルの上に置いた。「…準備万端だよ…」
リュウとリンクは眉を寄せた。
その袋の中には、一体何が入っているのか。
ゲールが続ける。
「…これはとても集中力がいる…。…私とキラ以外は部屋から出て行ってくれないかな…」
「!?」キラが握っていたリュウのシャツに爪を立てた。「ふ、2人きりだと!? このゲールという男と、2人きりになれだと!?」
「てめー、ゲール!」リュウがキラを背に隠すようにして、声をあげる。「何考えてやがる!! え!?」
「まあまあまあまあ」リンクが割って入った。「落ち着けや、リュウ、キラ。これでキラの記憶が戻るんやで?」
「うむ、そうだぞ」ミーナが続いた。「ここはおとなしくゲールに従おうぞ。これでキラの記憶が戻ったら、わたしは嬉しいぞ!」
「そ……、そうだな」
キラは覚悟を決めてリュウの背から出た。
「お、おい、キラ」
「大丈夫だ、リュウ。私は記憶を戻したい。大丈夫だ、リュウ」
「……わ、分かった」
リュウが承諾し、リンクとミーナと共にリビングの外へと出て行った。
それを確認したあと、ゲールがキラに言う。
「…さあ、背を向けて…」
「なっ、何故だっ…!」
「…ほら、早く…。…記憶が戻らないよ…?」
「う…」
キラはしぶしぶゲールに背を向けて立った。
ゲールが袋の中をあさって何かを取り出したのが分かった。
背で手を縛られた。
目隠しをされた。
口も塞がれた。
――って、何する気なのだ、この男!?
キラに恐怖が襲い掛かる。
「…そんなに怯えないで、キラ…」ゲールが背後で言った。「…大丈夫だよ、怖くない…」
怖いわ!
キラは心の中で突っ込んだ。
待ってくれ!
何をする気なのだ、この男!?
何を考えている!?
ゲールが言う。
「…それじゃあ、いっくよー…?」
待ってくれ!
キラは心の中で叫ぶ。
「…5…」
秒読み!?
「…4…」
ま、待って…!
「…3…」
待ってくれっ!
「…2…」
怖い!
「…1…!」
助けて! リュ――
バァン!!
心の中のキラの声を遮るように、キラの頭に大きな衝撃が走った。
ドサッ…
キラ、失神。
あまりにもすごい音がしたものだから、リビングの外で待っていたリュウたちは驚倒してドアを開ける。
「――キッ…キラ!!」
大慌てで床に倒れているキラに駆け寄る。
キラの脇には、厚さ3cmの板。
しかも真っ二つに割れている。
「ま、まさかてめー…!!」リュウはキラを腕に抱きながら、ゲールの顔を目を見開いて見つめた。「こ、これで殴ったのか!!?」
もしかしなくても、この状況を見ればそうだった。
「なっ、なんて原始的な方法をっ…!! お、おい、キラ、生きとるか!?」リンクは狼狽しながら、キラの目隠しやら口塞ぎやらロープやらを解いた。「お、おい、キラ!? 大丈夫かいな!?」
「だ、大丈夫だ、気絶してるだけだぞっ…!!」と、ミーナ。「そ、それにしても、た、たしかにわたしたちでは出来ない方法だぞっ……!」
特にリュウには無理である。
こんな思いっきり、分厚い板でキラを殴るなんて。
「てめー、ゲール…!!」リュウが怒りで震える。「これでキラの記憶が戻らなかったら、快感を味あわせる前に瞬殺だからな!!」
「…えぇ…!?」ゲールの声が動揺した。「…ひ、ひどいじゃないか、リュウ…! …死ぬ前に苦しみを味あわせてくれっ…! …大変だったんだよ、この技を覚えるの…!」
「あー、せやろなー」リンクが苦笑した。「キラに傷つけられるのが快感なゲールにとって、逆にキラを傷つけるのは至難やな……」
「そ、そうだな」ミーナが同意した。「しっかし、これでキラの記憶が戻るのか?」
そんな不安の中。
ゲールはリュウの命令により、ミーナの瞬間移動で葉月空港に送られ(捨てられ)た。
キラが気絶してから、約30分後。
キラが無事に目を覚ました。
「キラっ…!?」
キラの顔を覗き込む、リュウとリンク、ミーナ。
リュウの腕の中、キラが微笑む。
それだけでリュウには分かった。
キラの記憶が戻ったのだと。
「――…っ……」リュウの顔から笑みが零れる。「おかえり、俺の黒猫」
「ただいま、私の愛する主」
キラの唇が、リュウの唇に重なった。
――のは、ほんの0.2秒だけで。
「おっかえりぃぃぃぃぃぃーーーーっっっ!!!」
「おお、ただいまミーナ」
「寂しかったぞーーーっ!!」
「悪かったな、ミーナ。悲しい思いをさせて悪かった」
「いいのだ、もう! キラ、遊んでくれ!」
「ああ。たくさん遊ぼう、ミーナ」
「うっわぁーーーいっ♪」
キラに抱きつき大はしゃぎするミーナと、それを抱き締めてやるキラ。
もう主のことなんてそっちのけ。
「お、おい、キラ」
「何だ、リュウ」
「俺の相手は?」
「昨夜から今朝にかけて、充分相手してやったぞ」
「いや、でもここはもう一度ベッドへ行っ――」
「さあ、何して遊ぼうかミーナ♪」
「…………」
その日、夜まで愛猫に構ってもらえなかったリュウだった。
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