第33話 記憶喪失〜その2〜


 テントの中。

 暗闇に目が慣れて、リュウの瞳に映る。
 リュウと距離を置き、眠っているキラの姿が。
 記憶を失う前に大切にしていたネズミ型クッションを、ぎゅっと腕に抱いて眠っている。
 リュウがいないときは、必ず抱いて眠っていたネズミ型クッション。
 そのせいで安心するのか、キラは規則正しい寝息を立てている。

(キラ……)

 リュウはキラに手を伸ばした。
 キラに触れることができずに、指先が震える。

(…クソッ……!)

 ぎゅっと拳を作り、リュウは手を引っ込めた。

 眠れずに、さっきから何度も同じことを繰り返している。
 眠ったら、キラがどこかへと行ってしまいそうな不安に駆られるから。
 でも何より、キラを腕に抱いていないと眠れない。

 いつも腕に抱いていたのに。
 今のキラには、指1本触れることすら許されない。

 今日の夕食のときには、リンクとミーナ、グレル、レオンがやってきた。
 皆で食事して、キラに大好きなビールをたくさん与えた。
 星が見える時刻になるまで、今までの思い出をたくさん話した。

 でも、キラの記憶は戻らなかった。
 誰一人に、触らせることはなかった。
 笑顔を見せることはなかった。

(早く…、早くキラの記憶を戻さないと……)

 リュウはキラに身体を寄せていった。
 ぎりぎり触れないところで身体を止めて、キラの白い頬に手を伸ばす。

(俺がおかしくなっちまう……)

 リュウは震える手をぎゅっと握り、引っ込めた。
 一体何度目だ。
 いつまでこんなことを続けなければいけないのか。

「どうやったら記憶が戻るんだよ、キラ……!」
 
 
 
(不思議な…夢を見た……)

 ゆっくりと瞼を開けたキラ。

「――ぎっ…ぎゃああああああああああああああああああ!!」

 と、絶叫を山中に響かせた。
 リュウの顔が目の前にあって。

 キラと向き合う形で横臥していたリュウが、眉を寄せる。

「バケモノ見たみてーな声出すなよ」

「な、何もしなかっただろうな!?」

「しかも起きて二言目がそれかよ」

「まるで無事だったという気がしないぞ!!」

「何もしねーって言っただろ」

「信用ならんのだ、このドスケベ!!」

「そろそろ可愛い言動頼むわ。いつもみたいな」

「そんなの知らぬ!!」

「おまえ朝起きたら、俺の顔見て笑顔になって、おはようってキスしてくれんのに……」リュウは身体を起こして、溜め息を吐いた。「何だ、このヤリトリは」

「キ…、キキキキスだとぅ!? わ、私がおまえなんぞにそんなことするかっ!!」

「記憶失っちまったら、人が変わったみたいだな、おまえ。いや、猫だけどよ」

 リュウがもう一度溜め息を吐き、テントから出ていく。

 驚きのあまり暴れていた心臓を落ち着かせたあと、キラもテントから出た。
 炎魔法で火を起こして、湯を沸かしているリュウに訊く。

「お、おい」

「なんだ」

「……ふ、不思議な夢を見た」


「不思議な夢?」

 リュウが鸚鵡返しに訊くと、キラが頷いた。

「私とおまえがいて、私が笑っているのだ。…その、私はおまえと出会ってから笑っていたのか?」

「…笑わなかった日は数えられるほど。笑った日は数え切れないほど」

「……」

 キラは戸惑ってリュウから顔を逸らした。
 リュウの言葉が信じられなくて。

 だって、父が亡くなった日から、笑った記憶なんてほとんどないから。

 他の猫を見ては警戒した。
 他の種族のモンスターを見ては威嚇した。
 人間の気配を感じては逃げた。

 いつもいつも守ってくれていた父の死が分かってからは、己以外の者に怯えていた。
 笑った記憶なんて、ほとんどない――。

 キラの様子を見て、リュウが言う。

「…ふーん。おまえも、笑わなかったのか」

「え…?」

「俺もおまえを飼うまでは笑わなかったから。リンクに言われたな。俺はキラを飼ってから変わったって。…おまえも、俺に飼われてから変わったんだな」

「……」

 キラの瞳が動揺する。

 リュウと出会って、自分は変わっていた?
 笑っていた?
 それも、数え切れないほど?

 どんな世界?
 どんな楽しい世界?
 どんな居心地の良い世界?
 どんな幸せな世界?

 キラはリュウの顔を見た。

 思い出せ、私。
 記憶を戻せ、私。
 この男と過ごした日々を、思い出せ――!

「――…っ……!」

 突如頭痛に襲われ、キラの顔が苦痛に歪んだ。

「キラ…!?」

 思わず伸ばしたリュウの手を、キラが振り払う。

「触れるな!」

「――」

 一瞬傷ついた目をしたリュウ。
 キラの爪が引っかかり、手から血が流れる。

「…っ……」キラはリュウから顔を逸らした。「平気だ、何でもない」

 キラの胸がずきずきと痛む。

 このリュウという男、何故ときどきそういう表情をする。
 覚えていないのに、胸が痛くて息が詰まる。
 記憶を失う前――この男と出会ってからの私が、どれだけこの男を想っていたのは思い知らされるようだ。

 キラに背を向けたリュウ。

「……わり」

 そう呟くように言って、手に治癒魔法をかけた。
 湧いた湯でコーヒーを淹れて、キラに渡す。
 会話が途切れた。

 ミーナの瞬間移動で皆がやってきて、ようやくリュウが口を開く。

「おせー。腹減った、朝飯は」

「ごめん、遅くなっちゃって」と、レオン。「僕とミーナで早起きして作ってきたよ」

「わ、わたしは初めて作ったから上手くできたかわからないがっ……!」ミーナが言いながら、弁当箱を持ってキラに駆け寄ってきた。「く、食ってくれるかっ? キラっ…!」

「……寄るなと言ったはずだ」キラがミーナから顔を背ける。「白いのと灰色のが作ったものなんて食えるか」

 キラはリュウたちから飲み物だけは受け取っても、食べ物は警戒して自分でとって来ていた。

「…ふっ…ふみゃああああん! キ…、キラぁっ……!」

 ミーナが泣き出し、キラが声をあげる。

「泣くな、白いの! 腹が立つ! 泣くな!!」

 キラに怒鳴られ、ミーナがますます泣き出す。

「泣くなと言っている! うるさいっ…! うるさいうるさいうるさい!!」

 キラは黒猫の耳を両手で押さえ、その場から逃げ出した。
 走って走って、このよく利いてしまう耳にさえ届かないところまで逃げる。

 あの泣き声、耳障りだ。
 腹が立つ。
 腹が立つ!
 腹が立つ!!
 腹が立つ、己に……!!
 何故、私は思い出せない!!

 あんなに…!
 あんなに泣いているのに……!!

 こんなに…!
 こんなに悲しい気持ちになるのに……!!

 思い出せ!
 思い出せ――!

「――うっ…!」

 また頭痛に襲われ、キラは頭を抱えて立ち止まった。
 キラを追ってきたリュウが、慌てて駆けて来る。

「おいキラ、どうしたっ…?」

「どうもしていない!」

「いや、どうもしてるだろ」

「触れるな!」

「いや、触れてねーだろ」

「大声を出すな!」

「いや、おまえがだろ」

「いちいち突っ込むな!」

「いや、おまえがいちいちボケるからだろ」

「うるさいっ! あああっ、もう! 頭が…! 頭が痛い……!!」キラは頭を抱えたまましゃがみ込んだ。「おまえたちのことを無理に思い出そうとすると、頭が割れそうだ……!!」

「じゃあ、いい! 無理すんな、キラ。無理すんな……!」

 そう言いながら、リュウは心の中でキラを抱きしめる。
 だんだんとキラの頭痛が治まっていき、キラは頭から手を離した。

「……今、おまえに包まれた気がした」

「抱き締めたからな、心の中で」

「ふん…」キラはちらりとリュウの顔を見、またすぐに顔を逸らした。「……私は、とてつもなく大切なものたちを忘れてしまったのだな」

「そのうち思い出せる、きっと。だから無理はしなくていい。おまえが俺たちのことを忘れていても、俺たちはおまえを忘れていない。おまえの傍から離れたりはしない」

「……」

「ただ皆、おまえにずっと避けられたりするのはやっぱり辛いな。触られるようになっても良いって思ったときは、すぐに言えよ? 特にマジ超すげーマッハでそっこー俺に」

「……。わかった」

「よし。…それから」と、リュウは片手にぶら下げてきた弁当箱をキラの前に出した。「これ、食おうぜ。ミーナとレオンがおまえのために、早起きして一生懸命作ったんだぜ? 何、毒なんか入ってねーって」

「……。私がそれを食ったら、あの白いのは泣かなくなるか」

「ミーナか? おまえが食ったって知ったら、すげー喜ぶだろうな」

「…そうか。泣かれるのは耳障りだ。食ってやる」

 キラがそう言って、立ち上がった。
 踵を返すわけではなく、別の方向に歩き出す。
 リュウが後を着いて行くと、木に囲まれた小さな広場へと出た。

   真ん中まで歩いていき、キラがそこに座って言う。

「私の気に入っている場所だ。よくここで昼寝をした」

「へえ」

 リュウは広場をぐるりと一周見回し、キラから1人分空けて腰掛けた。
 弁当箱――重箱の蓋を開ける。

 その途端、見事中身の片寄った弁当が姿を現し、リュウは眉を寄せる。

「俺が走ったせいか?」

「まあ良い。味は変わらぬ」キラは言い、卵焼きを指で摘んで口に入れた。「……甘いな」

「おまえがミーナに、いつも甘い卵焼き作ってやってたからだな」

「私、料理なんてしてたのか」

「ああ。最近はすげー上手くなってな。外食ばっかりだった俺たちが、最近めっきりおまえの料理ばっか食べるようになったな」

「ふーん…?」キラが弁当のおかずを差し、「おい、これは何という?」

「ハンバーグ」

「これは?」

「エビフライ」

「これは?」

「キツネ……いや、ウサギリンゴか? 明らかにミーナが作ったな、コレ。レオンはこんな不器用じゃねーし、何よりおまえがミーナにリンゴを剥いてやるとき必ずウサギにしてやってたし」

「ふーん…?」

 キラが弁当のおかずを食べていく。
 リュウが食べたところ、おいしいものがあったり、イマイチのものがあったり。
 おいしいものはレオンで、イマイチのはミーナだと分かる。

 おいしいのもイマイチのも食べているだろう、キラ。
 デザートのウサギリンゴを齧りながら言う。

「どれもこれも……、あたたかい味だった」

「想われてるからな、あいつらに。ミーナもレオンも、おまえを姉のように慕ってんだぜ」

「…変な感じだ。白いのとも、灰色のとも、私たち黒い猫は嫌い合うものだというのに。何より、よく私があの2匹と仲良くする気になったものだ」キラが秋晴れの空を仰ぐ。「……まったく、変な感じだ。おまえを主にしたことで、私が変わったせいか……?」

「さあ? 俺はそこまでは分からねーけど。おまえがそう思うなら、そうなんじゃねえ?」

「……」

 キラが最後の一口を飲み込む。
 リュウは言った。

「一歩前進…だな」

「何がだ」

「ミーナとレオンの作った飯食ってよ。次は、俺たちに触れることか?」

「……ふん」キラが草原の上に、リュウに背を向けて横臥した。「食ったから寝る」

「じゃー俺も寝るかな」

 リュウも寝転がった。
 キラの方を向いて横臥して、キラの肩あたりに手を伸ばしていく。

 キラが驚倒したように肩を縮めた。

「お、おい、何だ」

「……怖いか、キラ」

「わ、私が臆病者みたいに言うなっ……!」

「じゃあ、言い方を変える。……嫌か、キラ」

「…っ……」

 キラは動揺しながら、肩の上で小刻みに震えているリュウの手を見た。

 怖い。
 少しだけ、怖い。
 大嫌いな人間に、触れられるのなんて。
 このキラにとって、とても勇気のいることだ。

 でも、この男に触れられるのは――

「嫌じゃ、ない」

「――そう…か」

 そうリュウの声が聞こえ、リュウの手がキラの肩にそっと触れた。
 腫れ物に触れたかのように一瞬手を離して、またそっと触れる。

 少し冷たくて、華奢な肩――キラの肩。
 触れていなかったのは、ほんの1日半。
 でも、リュウにとってはもっと長い間触れていなかったように感じた。

「キラ……」少しだけ、手に力を入れたリュウ。「…悪いっ……」

 キラの身体に片腕を回し、胸元に抱き締めた。
 キラの胸が強い動悸をあげる。

「おいっ、リュウ――」

「眠れねーんだよ!」リュウがキラの言葉を遮った。「おまえ腕に抱いてなきゃ、寝れねーんだよっ……! だから昨日も、おまえを探してた一昨日も、一睡もしてねえ! 寝かせてくれよ、もう……!」

「……。…ふん、仕方のない男だ」

 抵抗しようとしていたキラだったが、リュウの腕の中でおとなしくすることにした。

 リュウの弱い一面を見た気がした。
 このキラがいなければ駄目なのだと、言われた気がした。

   リュウの腕の中は動悸がする。
 胸が熱くなる。
 でも、不思議と安心する。
 とても、あたたかい。
 キラがおとなしくなり、瞼を閉じて眠ろうとしたリュウ。
 再び瞼を開け、キラの顔を覗き込んでみる。

「……俺より先に寝てんじゃん、おまえ」

 そう眉を寄せたあと、リュウは笑った。
 キラからはもう規則正しい寝息が聞こえてきていて。

「おやすみ、俺の可愛い黒猫」

 キラの猫耳に頬をつけ、再び瞼を閉じたリュウ。
 数秒後、キラを追って夢の中へと入っていった。
 
 
 
 
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