第30話 城の中の王女 後編


 7月の頭の舞踏会。
 ミカエル王子はジュリをダンスホールの端っこまで引っ張ってくるなり、苦笑して口を開いた。

「さっきのはないだろう、ジュリ……」

「何がですか、ミカエルさま!?」

 と刺々しい口調で言うジュリ。
 その頬はぱんぱんに膨れ上がっている。

「何がって、リーナのことだ。あんなにもドレスが似合っているのに、おまえは突然何を言うんだ」

「リーナちゃんには似合わないんです! 黄色とオレンジ色のドレスなんか!」

「最初は凄く似合う、可愛いって褒めてたそうじゃないか」

「やっぱり似合わないんです! ミカエルさまが選んだドレスは!」

 ミカエルは深く溜め息を吐いた。

「だからか、ジュリ? カラーだけとはいえ、私がリーナのドレスを選んだからか、ジュリ?」

「…そ、それはっ……」

 と戸惑ったように、ジュリがミカエルから顔を逸らす。
 そのジュリの態度から返事は肯定と受け取り、ミカエルは再び溜め息を吐いてから続けた。

「あのな、ジュリ。リーナが誰に見せたくて、誰に褒められたくて、ドレスを選んだか分かるか?」

「…ミ……ミカエルさまじゃないんですか」

「呆れるな」と、ミカエルが3度目の溜め息を吐く。「私でもない、他の誰でもない、おまえだジュリ」

「えっ?」

「リーナは愛するおまえに見せたくて、褒められたくて、私に訊いてきたんだ。どんなカラーが似合うかってな」

 ジュリの大きな瞳に、ミカエルの歪んだ顔が映る。
 怒りのような、悲しみのような、苦痛のような、ミカエルの表情。
 いつもは笑顔でいるミカエルのそんな顔を、ジュリは初めて見た。

「そうやって嫉妬したいのは、はっきり言って私の方だ。おまえはそんなにもリーナに愛されているというのに、何故分からないんだ? 泣かせるようなことを言うんだ? さっき(前話)おまえは、私にリーナのことを分かっていないと言ったな。たしかに、それはあるだろう。私はリーナと知り合って間もないからな。だけどな、ジュリ。それはおまえにも言えたことじゃないのか?」

「…ぼ…僕……!」

 困惑し、俯いたジュリ。

 脳裏にリーナの笑顔が浮かぶ。
 さっきその黄色とオレンジ色のドレスを褒めたときの、本当に嬉しそうな笑顔が。

 途端にリーナに申し訳ないことをした気持ちになり、涙が込み上げてくる。

「リ…リーナちゃんっ……!」

 踵を返し、ジュリはさっきまでリーナがいた場所へと駆けて行った。
 だがそこにリーナの姿がなく、きょろきょろと辺りを見渡す。

「あれっ!? どこっ!?」

「ここだぜ、ジュリ」と、キラーンと瞳を光らせたのは、近くで婦人と踊っていたリュウである。「おまえの愛する父上は!」

「あっ、父上! リーナちゃん知りませんかっ!?」

「って、父上じゃないのかジュリ…。父上は傷心だ……」

「さっきまでここにいたんですけど!」

「リーナなら、ついさっき俺の言うことも聞かずにシオンの後を追ってダンスホールから出て行ったぜ」

「えっ? どこへ行ったんですか?」

「さあな。ローゼを探しに行ったんだが」

「ローゼさまっ?」

 と鸚鵡返しに訊いたジュリ。
 ダンスホールの中を見回し、ローゼの姿を探す。

「あれ? いない…。ローゼさまもどこ行っちゃったんだろう……」

「おい、リュウ!」と口を挟んだのはミカエルだ。「私の母や姉、妹も見つからない。まさかローゼは……!?」

「ああ、連れて行かれた」

「何っ?」とミカエルが声を高くした。「クソ、私が目を離した隙にっ…! ローゼ、嫌なことを言われてなければいいがっ……」

「いや、言われるだろ。そしてされるだろ。まあ、シオンが向かったから大丈夫だろうが」

 というリュウの言葉に、ミカエルは眉を寄せた。

「される……だって? どういうことなんだ、リュウ」

「まんまだ。ミカエル、どうやらおまえは知らねーみてえだが、ローゼは虐待受けてんぜ。おまえの母親や姉、妹から」

「――えっ……?」

 と、声をそろえたジュリとミカエル。
 リュウの言葉を理解するまでに数秒。
 その後、脱兎のごとくダンスホールから出て行った。
 
 
 
 
 王の正室の妃――ミカエルの母と姉、妹にダンスホールから引っ張られてきたローゼ。
 皆ダンスホールに集まっているが故に人気がなくなっている廊下へと連れてこられてきた。
 その大理石の床を歩く4人のヒールの音だけが辺りに響く。

 ローゼはミカエルの母たちの後方を歩きながら、身につけているドレスの太股辺りを握り締めていた。
 ジュリに褒めてもらおうと一生懸命選んだドレスだというのに、強く握り締めすぎて皺が出来てしまいそうだ。
 でもそうでもしなきゃ、指先の震えは止められそうにない。

(こ…怖いですにゃ…、ジュリさんっ……!)

 これからミカエルの母たちにされるだろうことを、ローゼは分かりきっていた。
 物心が付いたときから、いや、きっと物心が付く前から、度々されてきたことだから。

 浴びせられる罵声。
 容赦のない暴行。
 ぼろぼろにされてしまうお気に入りのドレス。

 正直、何度味わっても慣れるものではなかった。

 廊下にいくつも並んでいる柱。
 そのうちの1つの影へとやって来て、

「ローゼ」

 と、ミカエルの母が呼んだ。

 ミカエルの姉、妹と共に振り返って続ける。

「あんた、さっきワザとわたくしのドレスを汚したでしょう」

「ちっ…、違いますにゃっ……!」

 とローゼは声を震わせながら、首を横に振った。
 それを見て、ミカエルの姉、妹と声をあげる。

「嘘おっしゃい!」

「あんた、お母上が気に入らないからってワザとやったくせに!」

「違いますにゃ!」と、ローゼは必死に首を横に振りながら続ける。「躓いて転んだときに、靴が飛んでしまって……! ほ、本当にワザとじゃ――」

「お黙り、ローゼ」

 とローゼの言葉を遮ったミカエルの母。
 ローゼの腰まである、ウェーブがかったピンクブラウンの髪の毛を引っ掴む。

「にゃっ!」

 とローゼが声をあげると同時に、頭に飾っていたティアラが床に落ちた。
 さらにドレスの裾を踏まれ、ローゼは狼狽して声をあげる。

「や…やめてくださいにゃ…! ド、ドレスが……!」

「ふん」

 と鼻を鳴らして笑んだミカエルの母。
 ローゼのドレスを靴のヒールでぐりぐりと踏みにじる。

「や、やめてくださいにゃ!」

 ドレスの裾を引っ張ったローゼ。
 その際に裾の部分が破れてしまい、溜まらず瞳に涙が込み上げる。

「その方がお似合いよ、ローゼ? あの厚かましくて、下劣で、憎たらしいメス猫の娘のあんたには、ぴったりのドレスでしょう?」

 廊下に響き渡るミカエルの母たちの高らかな笑い声。

(ドレスがっ…! ジュリさんに褒めてもらおうと思って、一生懸命選んだローゼのドレスがっ……!)

 わなわなと怒りと悲しみが込み上げてきたローゼ。

「何しますにゃ!!」

 思わず怒声をあげた。
 途端に変わった、ミカエルの母たちの顔色。

 引っ掴んでいたローゼの髪の毛を離し、ミカエルの母が手を振り上げる。
 そして平手で力一杯、ローゼの頬を殴打した。

「――ふにゃっ……!」

 人間と、最強を謳われるモンスターの一種・ホワイトキャットのハーフであるローゼ。
 たかが人間の女の一撃で、身体がよろけてしまうことはない。

 だが、まったく痛くないと言ったら嘘になる。
 殴られた頬がじわじわと熱を上げて行く。

「このわたくしに対して、その態度は何かしら、ローゼ? 床にひれ伏して謝りなさい」

「そうよ、土下座してお母上に謝りなさいよ!」

 ミカエルの姉と妹に髪を引かれ、頭を掴まれ、大理石の冷たい床に這いつくばったローゼ。
 ヒールで容赦なく顔や身体を踏まれ、涙が頬を伝う。

 痛かった。
 身体が。
 それ以上に、心が。

(助けてっ…! ジュリさん、助けてっ……!)

 心の中、ローゼがそう叫んだとき。

「おい、何してる」

 響いた少年の声。

 はっとして声のした方に顔を向けたローゼとミカエルの母たち。
 今さらになって近づいてくる足音に気付くと同時に、目に入る。

 父親譲りの青い髪の毛に、赤い瞳。
 祖父譲りの凛々しく整った顔立ちに、その力を表しているかのような威圧感のあるオーラ。
 背に真剣を装備し、燕尾服を身につけているその身体は、同年齢の少年よりも一回り大きいだろう。

「シオンさんっ……!」

 と、目を丸くして声をそろえたローゼとミカエルの母たちのところへと歩いてきたシオン。
 床に這いつくばっているローゼに目を落とし、チッと舌打ちして呟く。

「間に合わなかったか……」

 ローゼを踏んでいたミカエルの姉と妹が、慌てたように足を引っ込める。

 シオンの目が自分たちに向けられるなり、ミカエルの母たちはにっこりと笑顔を作った。
 ミカエルの母が言う。

「何でもございませんのよ、シオンさん。そうでしょう、ローゼ?」

「…何でもない……ねえ」

 とシオンがローゼに目を落とすと、ローゼが涙を拭って笑った。

「はい……、何でもないですにゃシオンさん。ローゼが転んでしまっただけですにゃ」

「ヘタクソな嘘吐いてんじゃねーよ。ま、別に言いたくないならいいけどよ。王族内のごたごたなんざ俺には関係ねーし。だが……」

 何があったかなんてお見通しだと言わんばかりの、シオンの鋭く赤い瞳。
 それに捉えられ、ミカエルの母たちは笑顔を引きつらせて目を泳がせる。

「見た目はスッポン。中身はそれ以下……か」と、フンと鼻を鳴らしたシオン。「醜い女共だ」

 そう言い捨てるなり、ローゼの腕を引いて身体を起こさせた。

「おい、いてーとこは?」

「あっ…、えと、顔と背中とっ……」

 とローゼがシオンに治癒魔法を掛けてもらう一方、かっと赤面したミカエルの母たち。

  「し、失礼しますわっ」

 と声を上ずらせ、小走りでその場から去って行った。
 その背をまだ怯えた様子で見つめているローゼに、シオンが呟くように言う。

「間に合うと思ったんだが……」

「えっ?」

 と瞬きをし、シオンの顔を見つめたローゼ。
 申し訳無さそうに目を逸らすシオンを見て、慌てて笑った。

「あっ、大丈夫ですにゃシオンさん! 来てくれてありがとうございましたにゃ! シオンさんが来てくれなかったら、ローゼはもっと酷い目に合わされてましたにゃ!」

「ってことは、やっぱりコケてねーんじゃねーか」

「あっ……」今度はローゼがシオンから目を逸らす。「…だ…大丈夫ですにゃ……大丈夫。ローゼはハーフだし、あの程度痛くないのですにゃっ……」

 そう言うローゼにシオンが何か言いかけたとき、

「ローゼさまっ……! ローゼさま、どこやあぁぁああぁぁああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁぁぁぁああぁあぁあっ!!」

 リーナの絶叫が聞こえてきた。

「ローゼさまっ! ローゼさまぁぁぁあぁぁああぁぁああぁぁあぁぁあぁぁああぁぁぁぁああっ!!」

 猫の耳が痛みそうなくらい響き渡ってくるその声を聞きながら、リーナは心配して来てくれたのだと、ローゼは察した。
 リーナはそういう女だと知っているから。

「ここですにゃ、リーナさん」

 とローゼが柱の影から出て言うと、リーナの絶叫が止んだ。
 遠くにいるローゼを見つけ、今度はこちらへと猛ダッシュで駆けて来る。

「ローゼさまっ、大丈夫かいな!? ついさっき、正室のお妃さまとその娘さん2人と擦れ違ったんやけど――って、あああっ!」

 ローゼのところへとやってくるなり、しゃがんだリーナ。
 ローゼのドレスの破けた裾を取り、声を震わせる。

「な、なんて酷いことするんや…! 信じられへんっ……!」

「大丈夫ですにゃ、リーナさん」

 そうローゼが笑って言うものの、リーナの怒りは治まらないらしい。
 自分のドレスの裾をまくり上げ、脚に装備していた2本の短刀を手に取って再び絶叫する。

「みじん切りにしてくれるわあぁぁああぁぁああぁぁああぁぁぁぁぁああぁぁああぁぁああっ!!」

 とミカエルの母たちのところへと駆けて行こうとするリーナの首根っこを、シオンが引っ掴んだ。
「ふぎゃっ!? なっ、何すんねんシオン! 離してやっ! うち、許せへんっ! 許せへんのやっ!!」

「落ち着け、バカ。おまえが王族にあーだこーだ言うのは危ねえって、何度言えば分かるんだよ」

「せやけどっ! せやけどせやけどせやけどぉぉぉおおぉぉぉおおぉぉぉおおっ!!」

 とじたばたと暴れるリーナに、ローゼは笑ってもう一度言う。

「本当に大丈夫ですにゃ、リーナさん。これくらい、ローゼは何てことないのですにゃ。まったくもって平気なのですにゃ」

「ロ、ローゼさま……」

「だから気にしないでくださいにゃ。来てくれてありがとうございましたにゃ。ダンスホールに戻りましょうにゃ」

「……」

 ローゼの笑顔を見つめたあと、再びしゃがんだリーナ。
 落ちているティアラを拾い上げ、ローゼの頭に乗せてやる。

 すると、再びローゼが笑った。

「ありがとうございますにゃ、リーナさん」

「ん……、ほな戻ろか」

 と少し笑い、ローゼの手を引っ張ってダンスホールの方へと踵を返すリーナの胸が痛んだ。
 ローゼが無理して笑っているのだと分かる。

 そこへ、今度はジュリとミカエルの声が聞こえてきた。

「ローゼさまどこですか! ローゼさま! ふみゃあああああん、どうしよおおおおおおう!」

「落ち着け、ジュリ! パニックになるんじゃな――」

「あああっ、ローゼさまどこですかぁぁぁああぁぁああぁぁああぁぁあぁぁぁああぁぁぁぁああぁぁあぁぁあっ!!」

 ズガァァァァァァァン!!

 と拳で大理石の柱を粉砕したジュリに、ミカエルが仰天して声をあげる。

「うっわああぁぁああっ!? な、何してんだジュリ! その柱の後ろにローゼがいたらどうするんだ、危ないな! っていうかおまえ、一体どんな力してるんだ…!? さ、さすがリュウの子だなっ……!」

 まったくだとリーナが顔を引きつらせたとき、ローゼが口を開いた。

「ここですにゃ、ジュリさん。ミカエル兄上」

 はっとしてローゼの方へと顔を向けたジュリとミカエル。
 大声でローゼの名を呼んだあと、慌てた様子で駆けて来た。

「ローゼさま、大丈夫ですか!?」

「はい、大丈夫ですにゃジュリさん」

「お怪我はありませんか!?」とローゼの身体のあちこちに目を向けたジュリ。「ああっ、ドレスがっ……!」

 とローゼのドレスの裾が破けていることに気付き、衝撃に大きな黄金の瞳を揺れ動かす。
 ジュリに続いて目を落としたミカエルも驚愕する。

「おいっ…、ローゼっ……!」

「大丈夫ですにゃ、ジュリさん、兄上。本当に大丈夫ですにゃ」

「……っ……!」

 顔を歪め、奥歯を噛み締めたミカエル。
 早歩きで踵を返していく。

「兄上、どこへっ?」

「母上のところだ! もう黙っていられん!」

「あっ、兄上――」

 とミカエルに伸ばしたローゼの手を握ったジュリ。
 大きな黄金の瞳に涙を浮かべながら、もう一度ローゼに訊く。

「本当にっ…、本当に大丈夫ですかっ…、ローゼさまっ……!?」

「はい」と、にこっと笑ったローゼ。「本当に大丈夫ですにゃ、大丈夫。本当に大丈夫ですにゃ、ジュリさん。…大丈夫……、だいじょ……う…ぶ……っ……」

 ジュリの顔を見つめているうちに堪えていた涙が込み上げてきて、頬を一粒の涙が伝った。
 笑顔が崩れ、堰を切ったように次から次へと涙を落としながら、瞼をジュリの肩に押し付ける。

「…ジュリさんっ……! ローゼは、第2夫人でも、第3夫人でもいいですにゃ。だから、ローゼと結婚しないなんて言わないでくださいにゃっ……! ローゼと結婚して、ローゼをここから連れ去ってくださいにゃっ……!」

「――」

 リーナの胸に痛みが駆け抜ける。
 ふと、己がローゼからジュリを奪ってしまったときのことを考えた。

 ジュリと結婚できなかったら、ローゼはどうなってしまうのだろう。
 この城の中で、どうなってしまうのだろうと。

「ローゼさま!」とローゼの身体を抱き締めたジュリが、大きな声で言う。「大丈夫です、ローゼさま! 大丈夫です! 僕、絶対にローゼさまのことお嫁さんにもらいますから!」

「――」

 再び胸に痛みが駆け抜けたリーナ。
 目の前で抱き合っている2人を見つめるそのグリーンの瞳は、困惑して揺れ動いていた。

(うちは…、うちは、どうすれば……?)
 
 
 
 
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