第122話 自惚れたバカ女


 ジュリがこのリーナのために取ってくれた高級ホテルのスィートルームの戸口で、リーナは目を疑う。

(――何が…起きとんねん……?)

 あまりにも思い掛けなくて、目の前の現実を受け入れることが出来ない。

 目線の先にあるリビングルームの、葉月町の夜景を見渡せる大きな窓。
 それと向き合うようにして置かれたソファーは、リーナに背凭れを見せている。

 そこから見えるハナの横顔。
 露出した華奢な肩。
 揺れる黒髪と胸。

 そして、何かを――誰かを見下ろす視線。

(そこには…誰が……?)

 その答えは次の瞬間に聞こえて来た、涙混じりの耳慣れた声で知ることになる。

「ハナちゃんっ……!」

 たったその一言だったけれど、リーナには分かる。
 当たり前だ。
 子供の頃からずっと一緒にいた、愛しい少年のものなのだから。

(――ああ、どうして…どうしてなん……!?)

 ようやく理解した現実に、リーナの膝が震える。

(どうしてなん、ジュリちゃん……!?)

 どうしてそのハナの場所は、このリーナではないのか。
 どうして今そこで呼ばれる名は、このリーナではないのか。

 どうしてジュリは、このリーナを裏切ったのか。

(言ったやん、ジュリちゃん…! 言ったやん……!)

 ずっとずっと、このリーナを想っていてくれると。

 それなのに一体どうしてなのか。
 胸が張り裂けそうな痛みに襲われ、視界がぼやけ、堪らず嗚咽しそうになった口を押さえると同時に零れ出し始めた大粒の涙。
 小さく「うっ」と漏れた声に気付いたハナが、このリーナへと視線を向ける。
 本来ならば恥じるべき場面を見られているにも関わらず、微塵も狼狽の色を感じさせないその目は語っていた。

 ――だから言ったべよ、リーナちゃん。だから言ったべよ……――

 自惚れたバカ女は、他の誰でもない。
 このリーナなのだと。

(ああ、助けて……!)

 白猫の耳を必死に両手で押さえても聞えてくる、ソファーの軋む音。
 このリーナではない、別の女の名を呼ぶ愛しい少年の声。

(もう、聞きたくない……!)

 助けて。
 助けて。
 助けて――

(助けて、ミカエルさま……!)

 リーナは戻る。
 瞬間移動で、先ほどまでいたミカエルの部屋へと。

 そして必死に探す。
 いつも支えてくれた男の姿を。

「ミカエルさま! ミカエルさま!」

 キングベッドの中を覗き、バスルームを覗き、衣裳部屋を覗く。
 しかしどこにもその姿がないと分かると、その部屋から飛び出した。

 仰天した様子の警備兵たちの呼び声も耳に入らず、リーナは探し続ける。

 ローゼの部屋や、王の部屋。
 他の王族の部屋や、鍵の掛かっている部屋。
 大きなバスルームや、厨房まで。

 色んな部屋を瞬間移動で回った後、リーナは舞踏会をやっているダンスホールへと辿り着いた。
 そうだ、そうだった。
 ミカエルは現在、ここにいるはずだ。

 ドレスを来ていないリーナは場違いであったが、本日は絶世の美女・キラが来ているために舞踏会に集まった者の視線はそちらへと向けられ、さほど注目は浴びなかった。
 ダンスホールの中を駆け周り、ミカエルを探す。

(どこやっ、ミカエルさま…! どこっ……!)

 シュウ、シオン、ローゼと目が合い、その後にリュウの腕の中で踊っているキラと目が合う。
 いずれもリーナの姿を目を丸くして追っていたが、キラだけは狼狽したように叫んでいた。

「待て、リーナ! そっちへ行くな!」

 と、リーナがダンスホールの外へと作られた階段へ行こうとしたときに。
 だが必死のあまりその声が聞えなかったリーナは、ダンスホールとその階段を遮る扉を開けてしまった。

 すぐ傍にある1階へと続く階段を見下ろしたときに、息を呑む。
 階段の真ん中の壁際のところに立ち、ミカエルともつれ合っている、このリーナではない別の女の姿に、声を失う。

 ジュリと同じ、艶のある黒猫の耳。
 鎖骨の長さまであるガラスの銀髪から垣間見える、整った横顔と紅潮した頬。
 ミカエルのロングジャケットを羽織っていても分かる、乱されたドレス。
 ミカエルの胴体の脇から露出している華奢な脚が揺られて、片方のヒールがかつんと音を立てて階段に落ちる。

 ミカエルは呼ぶのだ。
 愛おしそうに、その女の名を。
 ジュリに続いて、このリーナではない別の女の名を。

「ユナ……」

 呆然として涙を落としながら、リーナは短く失笑する。

(これが、『二兎を追う者は一兎をも得ず』……やな)

 己を、酷く嘲笑する。

(うちはほんまに、自惚れたバカ女や……――)
 
 
 
 
 翌日のジュリ宅の、朝食の席にて。
 うーん、とリュウから唸り声が漏れる。

「昨日のこと、色々覚えてねえ……」

「そりゃそうだろうよ。親父、昨日の舞踏会で、ずーっと母さんに見惚れてたからな」

 とシュウが呆れたように溜め息を吐くと、リュウが眉を寄せながらユナに顔を向けた。

「なあ、ユナ。舞踏会終ったときに、いつの間にかおまえの姿がなくなってたんだが……」

 ギクッとしたユナが「へっ?」と声を裏返すと同時に、キラが口を開いた。

「それはな、リュウ。おまえがいつまでも私と踊っていたものだから、ファザコンのユナは退屈してしまい、眠くなって先に帰宅していたのだ」

「何ぃっ!? ああ、悪かったな、ユナ…! 次の舞踏会では、パパはおまえと踊り明かすぜ……!」

「いいよ、パパ。気にしてないから」

 と、笑って返したユナ。
 本当は舞踏会が終ったあたりのその時間、ミカエルの部屋のバスルームでミカエルと入浴中である。
 そんなこと、リュウには口が裂けても言えないが。

 リュウが「それから」とキラに顔を向けて続ける。

「昨日踊ってるときに、おまえ何かリーナのこと呼んでなかったか」

「気のせいだぞ、リュウ」

「だよな。あいつ昨日はジュリとデートだったから、舞踏会にいるわけねえか」

 と、一旦味噌汁を啜ったリュウ。
 空いている2つの座席を見つめ、「そして」と続けた。

「何でジュリとハナがいねえんだ……」

 ユナが、昨夜は家に残っていた者たちの顔を見回して訊く。

「ね、ねえ? もしかしてジュリとハナちゃん、昨日から帰ってきてないの?」

「そうだよー」と答えたサラが、リュウに顔を向けて続ける。「親父、携帯に留守電入ってない? それかメール。ハナちゃんが親父に黙って外泊するわけないし」

 それもそうかとリュウが昨日の舞踏会以来電源を切っていた携帯電話をチェックしてみると、3件の留守電と58件のメールが届いていた。
 3件の留守電はリンクから仕事に関することで、58件中57件のメールはミラからのラブレター。

 そして残りの1件のメールは、ハナからだった。
 深夜キラとイトナミ中の時間帯に届いたそのメールには、こう書かれている。

『今夜はジュリちゃんと外泊しますだ。オラがいるから心配しないでくださいだ』

 リュウは眉を寄せた。

「ジュリと外泊って……どこにだ。つか、何でジュリはリーナじゃなくハナと外泊してんだ」

「それはだな――」

 とキラが答えようとしたとき、玄関広間からジュリとハナの「ただいま」の声が聞こえて来た。
 何やら楽しそうに話をしながら、キッチンへとやって来る。
 そして笑顔で姿を現した2人は、手を握り合っていた。
 ジュリとハナが手を繋ぐことなんて度々あるが、指と指を絡めあう、いわゆる『恋人繋ぎ』をしている2人からは、今までと違う雰囲気をしていた。

 それを感じながら、キッチンで朝食を取っていた一同はそれぞれに「おかえり」を口にする。
 キラとミラが立ち上がって2人の分の朝食を用意している間、ジュリとハナは己の席――隣同士に座った。

 その間もジュリと手を繋ぎながら、ハナはにこついた顔をリュウに向ける。

「ただいまですだ、リュウ様!」

「おう……おかえり。何だかおまえもジュリも、やたらと機嫌良さそうじゃねーか」

 ジュリの方は、若干瞼が腫れているが。

 と心の中で続けながら、リュウは察する。

(昨日のデートで、ジュリとリーナの間に良くねえことが起こったな)

 一方、2人の繋がれた手を見つめていたサラが、「まさか」と声を高くした。

「ジュリとハナちゃん、付き合うことにしたの? 恋人同士になっちゃったわけ?」

「そんなところだ」

 と答えたのは、キラだ。
 ミラと共にジュリとハナの前に朝食を用意しながら、微笑して続ける。

「良かったな、ジュリ。リーナのことは残念だったが、昨日までよりもずっと幸せそうに見えるぞ?」

「はい、母上。たしかに僕、今とても心が楽なんです」

 とジュリが微笑すると同時に、一同からどよめきの声が漏れる。
 シュウが「じゃあ」と口を挟んだ。

「リーナはどうしたんだよっ? まさか、ミカエル王子に……!?」

「それはないと思うわ、シュウ。リーナちゃんは、ミカエルさまとも上手くいかなかったはずよ」

 と、カレン。
 リュウ以外の誰もが気付いていることだが、ここ最近ミカエルとユナは相思相愛だった。
 昨夜遅く舞踏会から帰宅したときのユナの幸せそうな笑顔から察するに、ユナは無事にミカエルと恋人同士になれたのだろう。

 ジュリがふと困惑顔になる。

「えっ…? リーナちゃん、ミカエルさまと恋人同士になったんじゃっ…? 僕はそうなったものだとばかりっ……」

 続いてユナも困惑顔になる。

「あたしは、リーナは昨日ジュリと恋人同士になったものだとばかり……」

「おまえたちは気にするな」

 と言ってキラが朝食を再び食べ始めると、ジュリとユナはしぶしぶ承諾して食べ始めた。

 その代わりにと言っちゃ何だが、リュウが気に掛けていた。
 ジュリとハナが恋人同士になったという知らせを聞いたときから、朝食を食べる手が止まっている。

(ああ…幸せそうだな、ジュリ。良かったな……)

 と目を細めるが、それはジュリの傍らにいるハナに向けたときに消える。

(ジュリのことを、そう遠くないうちに幸せにしてみせるって……こういうことだったか)

 と、リュウはようやく分かった。
 ハナは他の誰でもない、このリュウのためにジュリと恋人同士になったのだ。

 たしかにジュリは幸せそうで、そのことが喜ばしいリュウだったが、正直複雑だった。

(ハナおまえ、本当にそれで良かったのか……?)

 と心配したところで、ハナが本当は誰よりも慕っているこのリュウは、ハナを女として見てやることも、ペットとして見てやることも出来ないが。

 そして、

(俺の親友の娘――リーナは今、どうしている……?)
 
 
 
 
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