第117話 『11番バッター、いくぜ』 後編
オリーブ山の一角から炎が上がり、瞬く間に四方八方に燃え広がっていく。
その瞬間、麓にいたハナは息を呑んで炎の中に突進して行った。
葉月島本土のブラックキャットよりも強い、離島のブラックキャットとして生まれ、尚且つ年齢は70歳過ぎという、とても大きな力を持っているハナ。
己を囲う魔力の壁をたびたび炎――魔法が突き抜けて来て察する。
(こんなことが出来るのは、リュウ様やキラ様の血縁者の可能性が高いべね)
だとしたら何故こんなことをするのだろうと考えたが、それは一瞬のこと。
そんなことは後回しにし、必死にジュリの姿を探す。
(ジュリちゃん、どこだべ! ジュリちゃん! オラが行くまで、無事でいてけろ! ご主人様の――リュウ様の、大切な大切なジュリちゃん……!)
たびたび魔力の壁を突き抜けてくる炎が、ハナの身体を掠る。
お下げの先に付けている髪飾りを燃やし、衣類に火を付け、肌を焦がし、熱い空気が気管と肺を焼いていく。
純モンスターとはいえ本来ならば苦しみそうなものだが、今のハナはそんなことすら気付かないでいた。
ただただ、己の中の主――リュウの大切な家族であるジュリを助けることしか頭にしかない。
(オラはっ…、オラは、死んだってジュリちゃんを助けてみせるだよ! ご主人様のためにっ……!)
だがジュリの姿が見つからず、パニックになりかけたそのときのこと。
轟々と唸っていた猛火が、鎮火していく。
ふと天を仰げば、豪雨が――水魔法が降り注いでいた。
(これは…、リュウ様の水魔法っ……?)
案の定、ハナが後方に気配を感じて振り返ると、そこにはリュウの姿があった。
「――リュウ様! ジュリちゃんがっ、ジュリちゃんが――」
と狼狽しながら駆け寄ってきたハナの言葉を遮るように、その頭にリュウの大きな手が乗った。
それに治癒魔法を掛けられ身体が癒えたと思った瞬間、額に強い衝撃を感じたハナ。
後方に3メートル吹っ飛ばされて鎮火した山肌の上に尻餅をつき、リュウを見上げたときに何が起こったのか気付く。
リュウのデコピンを食らったのだ。
リュウはハナも含め、女たちを叱るときはデコピンが多いが、こんなにも強いデコピンを食らったのは己が初めてではないかと思うくらい、額に激痛が走る。
額を両手で押さえ、ハナは狼狽しながら口を開く。
己は主を怒らせてしまったのだと、リュウの形相を見て察した。
「ごっ……、ごめんなさいだ、リュウ様! ごめんなさいだ! ジュリちゃんが――」
「ジュリは無事だ」
とリュウが言葉を遮ると、一瞬安堵の表情を見せたハナ。
その後、立ち上がって180度近く頭を下げ、再び謝る。
「ごめんなさいだ、リュウ様! ごめんなさいだ、ごめんなさいだ、ごめんなさいだ! オラが付いてるにも関わらず、ジュリちゃんを危険な目に合わせてしまいましただ!」
「……」
リュウの返事がなく、ハナは困惑して頭を上げる。
その瞬間、顔面に何かを投げつけられて「わっ」と声を上げた。
何かと両手で取って見ると、それはリュウのジャケットだった。
「…リュウ様、あの……?」
と首を傾げたハナだったが、リュウの目線を追って己の身体に目を落としたときに、ようやく気付く。
炎で服のあちこちが破れてしまい、あられもない姿になってしまっていることに。
ハナは「あっ!」と顔を真っ赤にさせながらリュウのジャケットを羽織ると、再び180度近く頭を下げた。
「あっ、ありがとうございますだ、リュウ様! ちゃんとクリーニングに出してお返ししますだっ!」
ハナの黒猫の耳に聞えてきたのは、リュウの溜め息だった。
「…リュ、リュウ様っ……!?」
ハナが戸惑いながら顔を上げると、麓へと降りていくリュウの背が目に入った。
「まっ…、待ってくださいだ、リュウ様! ごめんなさいだ、リュウ様っ……!」と、ハナは狼狽してリュウを追いかける。「ごめんなさいだ! ごめんなさいだ、リュウ様! オラ、もう二度とジュリちゃんを危ない目になんか合わせたりしませんだ! だからお許しくださいだ! リュウ様! オラッ……、オラ、ジュリちゃんが今度危ない目にあったそのときは、破滅の呪文を唱えてでも必ず救いますだ!!」
そんなハナの言葉に息を呑み、リュウが振り返る。
その右手が己の額へと上がってきて、ハナはぎゅっと目を閉じた。
また仕置き――デコピンされると思ったから。
だが、10秒経ってもそれは飛んでこなくて、恐る恐る目を開ける。
小刻み震えたリュウの手が目に入ったと思った瞬間、頭上から聞えてきた、吐き捨てるような声。
「おまえには呆れた」
「――」
ハナはしばらくの間、呆然としてその場に立ち尽くしていた。
その晩。
11番バッターのシュンは、ジュリとハナの部屋の前で深い溜め息を吐いた。
(ジュリ兄とリーナの進展っちゅー進展はなかったし、11番バッターは失敗か……)
だがそんなことより、ハナに悪いことをしてしまったと罪の意識に苛まれる。
(今日あのあと、ハナはいつも通りジュリ兄の仕事の手伝いをしたみてえだけど……)
家へと帰って来たハナに、いつもの明るい笑顔はなかった。
泣くまいと涙を堪えた、作り笑顔だった。
コンコンとノックをして、シュンはジュリとハナの部屋のドアを開けた。
中を覗き込んで2人の姿を探すと、バスルームのドアに背を預ける形で座っているジュリの姿があった。
シャワーの音が聞えてくることから、どうやらハナはバスタイム中らしい。
「シュン……、どうしたの?」
とジュリは立ち上がると、シュンのところへとやって来た。
シュンは中に入ってドアを閉めると、ハナのいるバスルームの方を気にしながら口を開いた。
「ハナ、どうだ?」
「うん……、元気、ない」
そう言って小さく溜め息を吐き、ジュリが己のベッドに腰掛ける。
それと向き合うようにしてシュンがハナのベッドに腰掛けると、ジュリが話を続けた。
「ハナちゃんがね、言うんだ。僕を危ない目に合わせてしまった、ペット失格だって」
「そ、それはちげぇよっ…! 悪いのはカノン・カリン――いや、オレだしっ……!」
「ああ……、さっき今日のことの事情を聞いた父上から凄まじいゲンコツ食らってたけど大丈夫、シュン?」
「いや、三途の川が見えた」
と顔面蒼白したシュンの顔を見たあと、ジュリが逸れかけた話を戻して続ける。
「僕もさ、ハナちゃんのせいじゃないし、ペット失格なんかじゃないってさっきから言ってるんだけど……」
「ダメか」
「うん……」
そうか、と溜め息を吐いたシュンは、再びバスルームの方へと顔を向けた。
今日のことを思い出すと、ふと思うことがある。
たしかにハナは、ジュリを危ない目に合わせてしまったことを悔やんでいるように見える。
でも、
(師匠に呆れたって言われて、落ち込んでるようにも見える。それってもしかして、ハナはジュリ兄のことじゃなく……)
リュウのことを、主だと思っている――?
とシュンが思ったとき、ジュリが言葉を続けた。
「ねえ、シュン。僕は何をしてるんだろうね」
「何って?」
「今日、ハナちゃんは命をかえりみず、僕のことを助けてくれようとしたんだ…! それほど、僕のことを想っていてくれてるんだ……!」
と声を詰まらせるジュリの顔を見て、11番バッターのシュンは、作戦を実行する前にふと思った予想が的中してしまったと思った。
(ああ…、やっぱりジュリ兄とリーナを近づける作戦のようで、ジュリ兄とハナを近づける作戦だった……)
ジュリが間を置いて、静かに続けた。
「だからね、シュン……僕はこれで最後にしようと思う」
「え?」
「あのね……――」
バスタイム中のハナ。
俯きがちに立ち、シャワーを強めに出して頭から浴びていた。
(オラは、ジュリちゃんを危ない目に合わせてしまっただ…! ペット失格だべ……!)
シャワーを強めに出しているのは、その音で堪えきれぬ泣き声を殺すため。
頬の上を、水滴と共に涙が零れ落ちていく。
(オラはもう、リュウ様に呆れられた…! リュウ様に、見放された…! オラは何一つ、リュウ様の――ご主人様の、お役に立てなかっただ……!)
その現実が苦しくて、もういっそ死んでしまいたい衝動に駆られる。
だがそのとき、脱衣所からジュリの声が聞こえてきた。
「ハナちゃん、お願い。元気を出して」
「……オラはもうペット失格だべ、ジュリちゃん。きっとリュウ様からジュリちゃんのペットを外されるだ。そして離島へ帰されるだよ」
「父上? 父上の意見は関係ないよ。それは僕が決めることだ。ハナちゃんは、ずっと僕のペットだよ」
「ありがとう、ジュリちゃん。でも――」
「それから」と、ハナの言葉を遮り、ジュリが続ける。「まだ、はっきりしたことは言えない……んだけどねハナちゃんっ?」
「何だべ、ジュリちゃん?」
「その……」と、ジュリが少し間を置いてから続ける。「今度のリーナちゃんのオフに、リーナちゃんをデートに誘おうと思う。そのときに、僕はもう一度リーナちゃんに選んでもらう。僕か、ミカエルさまか。それでリーナちゃんがミカエルさまの方を選んだり、まだ迷っているようだったそのときは……」
「うん……?」
「もう、リーナちゃんのことを追いかけるのはお終いにする。そしてそのときは僕の恋人になってくれる、ハナちゃん?」
と言った次の瞬間、浴室からハナが「えっ!?」と声を上げながら素っ裸で飛び出して来、面食らったジュリ。
あたふたとして近くにあったバスタオルを取り、それでハナの身体を包み込むようにして抱きしめる。
「ハナちゃん……、今日、僕のためにありがとう。僕はハナちゃんみたいな子に想われて、とても幸せ者だね」
「…ジュ、ジュリちゃん、オラでいいだかっ…!? オラを選んでくれるだかっ……!?」
ジュリが、うんと頷いた。
「僕がリーナちゃんに振られちゃったそのときは……、ハナちゃんが恋人になってくれたら嬉しいな」
「――もっ……もちろんだべよ、ジュリちゃん!」
と顔を輝かせたハナがジュリに抱きつき、勢い余って押し倒す。
途端に、ジュリが赤面した。
「あ、あわわわっ……! ハ、ハナちゃん、僕まだ振られたって決まったわけじゃないし、まだそういうことは――」
「ありがとう、ジュリちゃん!」と微笑んだハナの瞳から、一粒涙が零れ落ちる。「オラ…、オラ、ジュリちゃんのお陰でっ……」
主の――リュウの、役に立つことが出来るかもしれない。
(ご主人様、ご主人様、もう一度オラを見てくださいだ…! オラ、絶対絶対ジュリちゃんのこと、いつも笑顔でいさせてみせますだ……!)
首まで真っ赤になっているジュリに、ハナの唇が重なった。
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