第112話 『10番バッター、行くのだ』 前編


 自室のベッドに寝転がっているジュリ。

「なあ、ジュリちゃん。リーナちゃんでなく、オラじゃ駄目だべか……? オラなら少なくとも、ジュリちゃんのこと落ち込ませたりしねえだよ……」

 そう言ったハナの唇が重なってきて、慌ててハナの肩を掴んで突き放した。
 ベッドから飛び置き、困惑しながらハナを見つめる。

「ハ…ハナちゃんっ…? と、突然どうしたのっ……?」

「さっき言った通りだべよ、ジュリちゃん。リーナちゃんのことは忘れて、オラにしないべか?」

「ど、どうしてっ? 今までずっと僕のこと――」

「見てられないだよ、もう」とジュリの言葉を遮ったハナの表情は、怖いくらい真剣だった。「見てられない……見たくないだよ、オラ……あんな…あんなっ……」

 リュウの悄然とした姿なんて。

(リュウ様は――ご主人様は、ジュリちゃんが、家族皆が笑ってくれないと、幸せになれないだ…! オラはご主人様の幸せのためなら、何だってするだよ……!)

 だから、

「ジュリちゃん、いつまでもふらふらしてるリーナちゃんはもう止めて、オラと幸せになるべよ…! オラは絶対絶対、ジュリちゃんのこと落ち込ませたりしないから…! いっつもいっつも、ジュリちゃんが笑顔でいられるように努力するから……!」

「ハ、ハナちゃ――」

「だからジュリちゃん、オラを選ぶだよ……!」

 ハナの唇が、再びジュリの唇に重なった。

 ジュリの部屋のドアの外。
 ジュリに飲み物をとビールを持って来たキラは、ビールの缶をそっとドアの脇に置いて階段を下りていった。
 そのよく利く黒猫の耳には、当然ジュリとハナの会話が聞こえていた。

(リュウのためか、ハナ……)

 とキラは、ハナの本心を察する。
 リュウにとってのペットは生涯このキラだけだが、ハナにとっての飼い主はリュウ。
 同じ主を持つペットとして、訊かずともハナの考えなど容易に分かった。

(ハナを選ぶということは、たしかにジュリにとって悪くない選択だ。リュウがジュリのペットにと選んだハナは、とても信頼が厚い。ジュリを裏切るなんてことはないだろうから、ジュリが傷付くこともない)

 だが、

(ハナがそんなことをして、リュウは喜ぶのか……?)

 そんなことも気に掛かった。

 三つ子の誕生日パーティーで騒がしいリビングに、再び戻ってきたキラ。
 ソファーに腰掛け、少し悄然とした様子でウィスキーグラスを傾けているリュウの顔を見つめる。

 するとすかさずリュウの手が伸びてきて、その膝の上に座らされた。

「ジュリの様子はどうだった、キラ」

 そんなリュウの言葉に、キラははっとする。

 そうだ。
 今はとりあえず、ジュリの笑顔を取り戻すことが最優先だ。
 リュウは落ち込んでいるジュリのことを気に病んでいるのだから。

「大丈夫だぞ、リュウ。少し時間が経てば、ちゃんと料理を食べるだろう。ハナもいるしな」

「そうか…、そうだな。あいつが――ハナが、ジュリの傍にいるなら……」

 そう少し安堵したように呟いたリュウの言葉を聞き、キラは改めて思う。
 やはりハナを選ぶということは、ジュリにとって悪くない。
 むしろ良い選択かもしれない。

 しかし、

(当然のこと、ジュリにとって一番良いのはリーナだ。ここは私が10番バッターとして、あとでリーナに……)

 選択肢を与えてみようか――
 
 
 
 
 深夜過ぎ、さんざん泣きじゃくったリーナが疲れて眠ったあと。
 父親であるリンクは、リーナの部屋から出るなり深い溜め息を吐いた。

「ああ…、結局おれは娘を泣き止ますことが出来へんかった……」と滅入って蹲り、かれこれ約30年間もあれやこれやと頼っている親友の名を呼ぶ。「リュウーっ、助けてやーっ…! おれ、どうすればええねん…! なんて言ってやればええねん…! 大切な娘が――リーナが、めっちゃ泣いとるのに、言葉が出て来ぃへん……!」

 と、そのとき、鳴り響いたインターホンの音。
 リンクは「リュウっ?」と声を上げるなり、すぐさま玄関へと駆けて行った。
 名を呼んだ親友の姿を期待してドアを開けるが、そこには――

「……あかん。バカ2匹が来よった」

 親友のペットである超天然バカのキラと、それを慕うが故にバカになってしまったミーナ――己のペット兼、妻がいた。
 キラ、ミーナと眉を吊り上げて言う。

「おい、リンク! こんなにも賢い私たちに向かって、バカとは何だバカとは!?」

「まったく失礼だぞーっ! バカはおまえではないか、リンク!」

「おまえらよりはマシやっちゅーねん……」とリンクは呟くと、突っ込まれる前に続けた。「キラ、遊びに来たん? せやったら今日は堪忍してや。リーナ、ようやく眠ったんやから」

「遊びに来たのではない。眠っているところ悪いが、そのリーナと話があるのだ」

 とキラは言うと、ミーナに顔を向けた。
 にこっと笑って、バスルームの方を指差す。

「もうそろそろ眠る時間だろう。風呂に入ってくるのだ、ミーナ」

 ミーナが承諾してバスルームに入り、シャワーの音が聞こえてくると、キラはリーナの部屋の前へと歩いて行った。
 ドアノブに触れたキラに、リンクが戸惑いながら訊く。

「ま、待ってや、キラっ…! リーナに、何を言う気なんっ……?」

「案ずるな、リンク。ちょっと訊きたいことがあるだけだ」

「訊きたいこと?」

 それは何なのかとリンクが訊く前に、キラはリーナの部屋に入った。
 リンクがいては落ち着いて話せそうにもないので、入ってこれぬよう鍵を閉める。

「おまえはミーナと共に風呂にでも入ってこい、リンク」

「ええっ? ちょ、おい、キラっ?」

 と戸惑うリンクは放置し、キラはベッドで眠っているリーナのところへと歩いて行った。
 ベッドの端に腰掛け、すっかり泣き腫らして眠ってしまったリーナに呼び掛ける。

「リーナ…、大丈夫か? リーナ……」

「…ん……」と目を覚ましたリーナのグリーンの瞳が、ゆっくりとキラの顔を捉えた。「…キラ姉ちゃん……」

「大丈夫か?」

 とキラが問うと、再びリーナの瞳に涙が滲んだ。
 キラの膝に突っ伏し、泣きじゃくる。

「ああ…、可哀想にな、リーナ……」

 と、キラの手がリーナの頭に優しく触れた。
 このキラにとって可愛い妹のような存在のミーナの子供であるリーナは、己にとっても娘同然。
 こんな姿を見るのは胸が痛んだ。

「ミカエルに傍にいて欲しいのか」

 そんなキラの問いかけに、リーナが泣きじゃくりながら頷く。

「ジュリにも傍にいて欲しいのか」

 リーナが再び頷く。
 キラは小さく「そうか」と返すと、リーナの頭をよしよしと撫でながら続けた。

「ジュリとミカエル、どちらか一方を失うことが恐ろしくて堪らないのだな」

 とキラが言うと、リーナがますます大きな声を上げて泣き出した。

「済まぬ、リーナ。おまえをこんなにも臆病にさせてしまったのは、私の息子――ジュリだ。済まぬ」と言いながらリーナの頭を撫でて宥め、キラは一呼吸置いて「だが」と続ける。「親バカのように思われてしまうかもしれぬが、最近のジュリは男としてずいぶん成長した。ミカエルにも負けておらぬ。今のジュリならば、おまえを不安にさせることも、泣かすことも、傷つけることもないだろう」

 それはリーナも分かっている。

 ジュリは変わった。
 大きく成長した。
 己よりも、ずっと大人になった。

 でも――

「だから、もう一度ジュリを信じ、ジュリだけを想ってはくれぬか?」

 そう訊かれると、頷くことは出来なかった。

「怖いねん、キラ姉ちゃんっ…! 支えてくれたミカエルさまが、うちの傍からいなくなると思うと、めっちゃ怖いねんっ…! ジュリちゃんのことを信じてないわけやないっ…! ただただ、怖いねんっ……!」

 再び小さく「そうか」と返したキラ。
 膝に突っ伏しているリーナの顔を両手で包んでこちらを向かせ、心を鬼にして忠告する。

「だが、リーナ。おまえはこのままだと、ジュリとミカエルの両方を失ってしまうぞ。ミカエルはきっと、ユナに惹かれているだろう。ジュリはジュリで、おまえ以外の選択肢というものが出来た」

「――えっ……?」とグリーンの瞳を揺れ動かし、リーナが耳を疑って訊く。「う…うち以外の選択肢…って…? ジュ、ジュリちゃん、うち以外にも好きな女が――」

「そうではない」とリーナの言葉を遮り、キラは続ける。「今、ジュリが想っているのはおまえだけだ、リーナ。だが、おまえはジュリとミカエルの間をふらふらとしている。それに見兼ねた女がいてな。もうリーナは止めて己と幸せになれと、ジュリに言い聞かせていた」

「――えっ……!?」

 と困惑し、リーナは考える。

(誰…!? ジュリちゃんにそんなこと言う女って、誰……!?)

 とりあえずすぐ分かったことは、それがジュリにとって身近な存在だということ。
 ということは、それはきっと己にとっても身近な存在だということ。

 一瞬またローゼかと考えたが、それはないだろう。
 誰が見ても、ローゼは今、シオンといて幸せそうなのだから。

(ほな、誰…!? 誰や…!? …まさかっ……!)

 まさか、

「――ハナ…ちゃん……?」

 そうだと頷いたキラを見、衝撃を受けたリーナが言葉を失う。
 そして十数秒後、リーナの口から出てきた疑問。

「ジュ、ジュリちゃんは、なんて…? ジュ、ジュリちゃん、ハナちゃんに何て答えたんっ……? な、なあ、キラ姉ちゃん!?」

「さあな。あのあとジュリがハナになんと言ったのかまでは、聞いてこなかった」

「ほ、ほな、キラ姉ちゃん言ってくれたやろっ? ジュリちゃんにはうちだけやって、ハナちゃんに言ってくれたやろっ?」

「いや」

「えっ……!?」

「私は何も言わなかった。私は、ジュリがハナを選択することは悪くないと思ったからな」

 そんなキラの言葉に、リーナが声を上げる。

「なっ……、なんでやねん、キラ姉ちゃん! ジュ、ジュリちゃんの相手、うちやなくてもええって言うん!?」

「もちろん、ジュリにとってはおまえが一番良いだろう」

「ほな――」

「だがな、リーナ」とリーナの言葉を遮り、キラが続ける。「おまえは今、どうしている? ジュリだけを想えず、別の男との間を行き来しているだろう。そんな中で、ジュリが幸せだとでも思っているのか? ジュリは成長したとはいえ、傷付かないわけではない。胸を痛めているのだ。それを見た私の主――リュウが、とても落ち込んでしまっているのだ」

「…リュウ兄ちゃん…? キラ姉ちゃん、うちのためでもジュリちゃんのためでもなく、リュウ兄ちゃんのために……!?」

 当然だといわんばかりに大きく頷き、キラは言い退ける。

「私は猫モンスター。己の親よりも子よりも、主の幸せを願う。主の幸せを阻もうものならば、何人たりとも許しはせぬ」

 威圧的なキラのオーラに、たじろいだリーナが口を閉ざす。
 そんなリーナを少しの間見つめたあと、キラは「だが」と笑った。

「私はもちろん、息子のジュリのことも、娘のようなおまえのことも愛している。おまえたちの幸せも願っている。だから選ぶのだ、リーナ。さあ……」

 勇気を出してジュリだけを想い、ジュリと幸せになるか。
 それとも、相変わらずふらふらし続け、嫌だ嫌だと言っても結果的にハナにジュリを任せてしまうことになるか。

(ここまで言って、リーナがまだジュリだけを想えぬというのならば、10番バッターは失敗だ)

 そして失敗したそのときは、

(私はジュリに、ハナを選ぶよう促すことになる……)
 
 
 
 
次の話へ
前の話へ

目次へ
感想掲示板へ
小説トップへ
HOMEへ
inserted by FC2 system