第23話 テスト勉強と愛情ニンジン


 6月中旬。ここ宮城県では、そろそろ梅雨に入ろうか季節。ドールハウス・Aの201号室――虎之助宅のリビングダイニングは昨今、夕刻過ぎになっても部屋の主が帰宅せず、点頭しないでいた。
 暗いそこの壁際に並べられている黒いローチェストの上、所狭しと並べられている多彩なドレスを身に纏ったカントリードールたちが、心配そうに見つめる先には、窓辺にぽつねんと立つ、緑の黒髪と白皙の肌を持つビスクドール――胡蝶――主がいた。その血のように紅い瞳が憂愁の色を浮かべて見つめるは、ドールハウス・Bの201号室――大輝宅のリビングダイニング。こちらとは反対に明るいそこには、部屋の主――大輝とその二体のドール、それから隆志とその一体のドール、舞とその一体のドール、そして胡蝶の主――虎之助の姿があった。
 それを見つめながら、胡蝶は呟くように呼ぶ。

「…虎之助……」

 本日窓辺でこうしてから、5度目だった。だが、これまでも全てそうだったように、虎之助は振り返らない。
 続け様に、声高になってもう一度呼ぶ。

「…虎之助……」

 やはり虎之助は振り返らない。とても優しい目で、傍らにいる舞を見つめたまま、こちらを――この胡蝶を見つめようとはしない。今日も、昨日も、一昨日も、一昨昨日も、その前の日も、その前の前の日も、ずっと。

「…虎之助……」

 胡蝶がもう一度悄然とした呼んだその時、ふと虎之助が立ち上がった。そして窓辺へと歩いて来、ようやく胡蝶を見つめて手を振る。だが、

「…虎之助……」

 胡蝶の声が欣然と明るくなった刹那、虎之助はカーテンを閉めてしまった。虎之助の影がカーテンから遠ざかって行くのを見つめる血のように紅い瞳に、再び憂愁の色が浮かぶ。

「…虎之助……」

 見兼ねた一体のカントリードールが、ローチェストの上から浮遊して胡蝶の傍らへとやって来た。胡蝶の顔を覗き込んで気色を窺いながら、甲高く幼い声で呼ぶ。

「ごしゅじんさま……」

「…嫌い……」胡蝶が小さく漏らした。「…嫌い……あの子、嫌い……」

「ごしゅじんさま?」

「…嫌い…嫌い…嫌い……あの子、大嫌い……。…嫌い…嫌い…嫌い……」

 舞が、大嫌い――
 
 
 
 
 カーテンが閉められた大輝宅のリビングダイニングの中、食事用のテーブルで大輝と向き合ってテスト勉強をしていた隆志。ソファーの前のテーブルで舞に勉強を教えていた虎之助に顔を向け、戸惑いながら問うた。

「よ、良かったんですか? 越前先生……」

「何がだ、隆志?」

「胡蝶さんのことです。カーテン閉めて、こっち見えないようにしちゃって……」

「ああ、いいんだ。後で構っておく。いいからほら、勉強しろ! 明日からテストなんだぞ! ラストスパートだ、ラストスパート! 頑張れ!」

「はい、越前先生」

 と承諾し、再び教科書とノートに目を落とした隆志。「ありがとうございます」と呟くように言ってから、テスト勉強を再開した。胡蝶の視線が気になって勉強が思うように捗らないでいるこの隆志に、虎之助が気を遣ってくれているのだと分かる。今日だけではなく、隆志が胡蝶に亡き者にされそうになった日以来、ずっとだ。保健室の中にどれだけ女子生徒が殺到しようと、半裸にされようと、首筋や胸元に赤い痣が付けられようと、ズボンのジッパーを死守する日々が続こうと、虎之助は『見張り』である胡蝶を連れて来ようとはしない。隆志は、この上なく愛する主の傍に居たいだろう胡蝶に申し訳ないと思う反面、正直安堵していた。

(僕にとってもう、胡蝶さんは命を脅かす恐ろしい人形でしかなくなってしまったから……)

 またそんな人形が、胡蝶とそれなりに親しい大輝は兎も角、隆志にとってとても大切な幼馴染みの女の子――舞と接触すると思うと戦慄しそうだった。

(舞には、あんな目に合わせたくない。舞には……舞だけには)

 と、ふと舞の方へと顔を向けた刹那、隆志の手からシャープペンが飛んだ。ぶん投げた。まるでロケットのように超高速で飛んでいくそれの的は、舞の傍らの人物――虎之助の顔面。虎之助はそれを目前で「おっと」と受け止めると、眉を顰めて隆志に顔を向けた。

「何すんだよ、おまえ。危ねーな」

「何すんだじゃないです! このセクハラ教師!!」

 と、隆志は堪らず満面朱をそそいで憤怒する。舞の肩を抱き寄せ、頬にキスしていた虎之助に。

「セクハラじゃねえよ、人聞きの悪い奴だな。問題が解けたから褒美だ、褒美。ご褒美のチュー♪」

「ハァ!? 最初は飼い犬の頭を撫でるように、よしよしとしているだけだったのに、どうしてそこまでエスカレートしてるんです!?」

「だって舞の成績が飛躍的に上がるから、つい。ほら見ろよ、隆志。俺が舞に作った小テスト、最初はどの教科も30点以下だったのに、今は全部85点以上なんだぜ? この調子ならきっと、唇にキスしてやるようになったら満点を取れ――」

「こ・ろ・し・ま・す・よ……!?」

 と、言葉通り、虎之助に一瞬殺意を覚えた隆志。向かいでテスト勉強をしている、このセクハラ教師の従兄弟である大輝にヘルプを求めて顔を向けると、それは力無げに教科書とノートの上に倒れ伏していた。

「ま、的場先輩? どうしたんですか?」

「も…もう駄目だ……腹減って頭が働かねえ……」

「たしかにお腹減りましたね」

 と隆志も同意すると、2人の傍らで勉強を教えていた大河が、ふとキッチンの方へと顔を向けた。流しの前からクッキングヒーターの前まで行き来が可能な、大輝作の幅広い階段式踏み台に並んで立っている3体の人形――アリスとアリサ、愛香に声を掛ける。

「あの、もう2時間半も前からカレーライスを作っているアリス……と、助手の(というか逆に邪魔になっているように思えて仕方がない)アリサとお嬢さま? そろそろ出来上がりましたでしょうか?」

「はい、只今お運びしますね!」

 とアリスから声が返ってくると、大河は「では」と人間一同を見回した。

「この辺で、一旦ご夕食と致しましょうか」

 そういうことになり、隆志と舞、大輝が疲れた身体の四肢を伸ばして伸びをする。大河が皿の持ち運びを手伝おうとキッチンに向かう一方、舞は隆志の隣の、虎之助は大輝の隣の椅子に着いた。少しして最初に運ばれて来た舞のカレーライスは、アリサが何やら胸を躍らせた様子で小走りになって持って来た。

「見て見て、舞ちゃん! わたし、舞ちゃんのために頑張ったのよ! 頑張ってニンジン作ったのよ!」

 鸚鵡返しに「ニンジン作った?」と小首を傾げて問うた舞は、アリサからカレーライスの皿を受け取るなり、「きゃあ」と声高になった。

「ニンジンがお花の形になってる! かぁーわいいーっ! ありがとう、アリサ!」

 と舞に抱き締められたアリサが欣喜としていると、次にアリスが隆志のカレーライスを持って来た。もしかして、と隆志は少し胸を膨らませる。すると、

「はい、ご主人さま。ご主人さまのニンジンは、わたしが想いを込めてハート型に切ったのですよ」

 と案の定、期待通りのアリスの言葉とそのニンジンに、隆志の頬が染まる。

「あ…ありがとう、アリス。嬉しいよ……ハート型なんて、照れ臭いけどっ……」

「ふーん?」と、興味津々と隆志と舞のカレーライスを覗き込んだ虎之助が、大輝に顔を向けて言った。「んじゃあ、おまえのニンジンは愛香が切ったんじゃねーの? 何かの形に」

「かな、やっぱ。花、ハートと来たら……次は星あたりか?」

 と大輝も胸を膨らませて待っていると、愛香が間もなく大輝にカレーライスを運んで来た。その中のニンジンを見るなり、大輝が瞳を煌かせて「おお」と声高になる。

「やっぱり! おれのためにありがとな、愛香! やべえ、嬉しいっ……! これ、UFO型のニンジンか?」

「まあ、そう見えなくもないけど……違うわ」

「んじゃ、雪ダルマ?」

「いや、何でよ。ヒントはあんたの好きなもの」

「鏡餅?」

「あんた鏡餅好きだっけ?」

「まさか……ウン○――」

「んな訳ないでしょ! 何でだんだん遠くなってるのよ!? あんたの好きな乗り物よ、乗り物! てか、ラジコン!」

「ああ、車かー。……って、ウッソ、これ車ぁーっ!?」

 と驚愕した大輝に憤怒した愛香の癇声が響く中、最後に大河が虎之助にカレーライスを運んで来た。

「どうぞ、虎之助さん」

「サンキュ、大河。って、俺のカレーにニンジンなくね?」

「残ってませんでした」

「あっそう……」

 カレーライスが運び終わり、人間一同が声を揃えて『いただきます』をしてから数分が経った時のこと。テーブルの片隅に置いておいた大輝の携帯電話が鳴った刹那、虎之助が大輝の後頭部を軽くどついた。

「くぉら! テスト勉強の邪魔になるから電源は切っておけって言っただろ!」

「ご、ごめん、兄貴。忘れてたっ……!」

「まあ、いい。今は休憩中ってことで出ていいぞ」

「う、うん、ありがと。母ちゃんか父ちゃんかなあ、テスト前はいっつも心配して電話掛けてくるし」と思いながら携帯電話を取った大輝だったが、そうではなく。「……って、あれ? おれの数少ない友達――ドールオーナー友達だ」

 それを聞いた隆志と舞が「え?」と食事を中断した一方、大輝が口の中の物を茶で流し込んでから電話に出た。よほど狼狽しているのか、大輝が「もしもし」と言うや否や、相手の大音声が電話の外にまで聞こえて来る。

「助けて、的場くぅぅぅぅぅぅぅぅぅん! 大変なのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーっ!」

 女の声だった。どうやら誰だか察したらしい虎之助が、長嘆息を漏らす。

「いつものごとく人形遊びに夢中で、テストやばいとかじゃねーの。ったく、受験生だっつーのに……」

「受験生? うちの学校の3年生ですか?」

「ああ。3年C組の森崎圭(もりさきけい)。アリス・アリサ、愛香、大河と同様に、球体関節のキャストドールを一体持っててな」

「どんな子ですか?」

「アリス・アリサと同じくらいの外見年齢の少年。今の所、俺らの人形と違って『中の人』は入ってないけどな」

「へえ、でも見てみたぁーい!」

 と、虎之助と舞が会話している間も、大輝の耳には電話の相手――森崎圭の大音声がキンキンと響いている。

「大変なの! 大変なの、大変なの、大変なの的場くぅぅぅぅぅぅぅぅ――」

「わ、分かったから、落ち着いて話して、森崎先輩」

 と大輝は宥めるが、圭は相変わらず狼狽した様子で続ける。

「お風呂に入ってる間に、わたしの大切な大切なフォルがっ……!」

「フォル――森崎先輩の人形が?」

「居なくなっちゃったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーっ!!」

「い、居なくなったぁ?」

 はっと胸を突かれたように、隆志や舞、虎之助、人形たちが大輝を注視する。

「そうなの、居なくなっちゃったの! フォルが! わたしの大切なフォルが! 命より大切なフォルが! 窓が開いていたから、きっとそこから出て行っちゃったのよ!」

「いや、ちょ、窓から出て行ったって……。単純に、泥棒じゃねえの? 空き巣だと思って窓から侵入して……」

「わたし、窓にちゃんと鍵掛けてたし、窓が壊された形跡もない! 玄関のドアにだって、ちゃんと鍵もチェーンも掛かってる! パパもママもお姉ちゃんも妹もいる! 泥棒じゃない!」

「そっか、泥棒じゃないっぽいか。じゃ…じゃあ、やっぱりもしかして……」

 と大輝が困惑しながら周りの一同の顔を見回すと、それらも同様のようだった。大輝と同様に、察している。

「フォルの中にも……誰かの、魂が――?」
 
 
 
 
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