第16話 人形の力 前編


「たっただいまぁ!」

 と、ドールハウス・Bの201号室――大輝の部屋の鍵を開け、さらにドアを開け放ったのは舞である。途端にぴょーんと飛び跳ねて抱き付いて来たアリサを抱擁する。

「舞ちゃん、おかえりなさぁぁぁぁぁぁいっ!」

「いい子にしてた? アリサ」

「うん!」

 実はここ最近登校前に、隆志はアリスを、舞はアリサを、昼間寂しくないようにと、愛香と大河のいる大輝の部屋へと置いて行く。お陰で、それまで毎朝舞に付いて行くと喚いていたアリサもようやくおとなしくなってくれた。

「あの、舞さん」

 と、舞が声のした方――足元に目を落とすと、そこにはアリスが立っていた。舞の顔を仰視して問う。

「今日はわたしの主と一緒に下校されなかったのですか?」

「あ……うん。実は、今日の昼休みに隆志と喧嘩しちゃって……。いつもの喧嘩はあたしが一方的に怒ってることが多いんだけど、今回は隆志のことも怒らせちゃった……」

 と舞が嘆息すると、アリサの中から怫然とした声が聞こえて来た。

「まあ! 駄目な男ね! 心に余裕がないのよ、隆志って!」

「ううん、そんなことないんだよ、アリサ? 今回はあたしが悪いの。謝ろうと思ったんだけど、素直になれなくて、逃げて来ちゃった……」

 アリサが「ふーん?」と返した後、リビングダイニングの方を指差した。

「とりあえずお茶でも飲んで元気を出して、舞ちゃん。今、大河お兄ちゃんが淹れてくれてるわ」

 承諾し、アリサを腕に抱いたままリビングダイニングへと向かう舞。ふとアリスが付いて来ていないことに気付いて後顧すると、アリスは玄関のドアと向き合って正座していた。

「どうしたの、アリス? こっちにおいで」

「いえ、わたしのことはお気になさらず」

 どうやらアリスは主――隆志の帰りを待っているらしいと察した舞は、承諾してリビングダイニングへと入って行った。何を言った所で、アリスはあの場から動かないだろうから。
 リビングダイニングでは、愛香が床の上にウィッグやらドレスやらを沢山広げていた。

「舞ちゃん、おかえりー」

「ただいま、愛香さん。お着替え中?」

「ううんー。私が使わないウィッグやドレスの中で、アリスとアリサも使えそうなものをあげようと思って。好きなの持って行っていいわよー」

「えっ、いいのっ? きゃーーーっ、嬉しいっ! アリサに色んなドレス着せたいと思って作ってる最中なんだけど、初心者だからなかなか出来上がらなくって困ってた所なの!」

「ということは、ご主人さまの手作りドレスですか。素敵ですね、アリサ」

 と口を挟んだのは、キッチンからやって来た大河だ。舞の傍らに「どうぞ」と薫り高いダージリンティーを淹れたカップを置く。それを舞が「ありがとう」と破顔一笑して飲む一方、アリサの中から欣然とした声が聞こえて来た。

「うん、大河お兄ちゃん! わたし、舞ちゃんの手作りドレス、とぉーっても楽しみなのよ!」

「ふーん……主の手作りドレスかぁ」

 と愛香の中から呟くような声が聞こえると、大河がその顔を覗き込んで問うた。

「大輝さまがお帰りになりましたら、自分がお願いしてみましょうか、お嬢さま? お嬢さまに、ドレスを作って下さいと」

「…べっ…別にいいわよっ……! あいつ、お針子なんてヘタクソに決まってるしっ……!」

 と愛香が顔を背けると、大河の中からくすくすと忍び笑いが聞こえた。

「左様でございますか。しかし、自分の勝手でお願いしてみますね」

「…す…好きにすればっ……?」

「はい、お嬢さま」

 と再び忍び笑いをした大河が、舞と一緒にアリサに似合うドレスを選んでいた時のことだった。玄関の方から、アリスの金切り声が響いて来た。

「――ご主人さま!!」

 一体何事かと、舞たちが一斉にリビングダイニングの戸口から玄関を覗き込む。
 さっきは正座していたはずのアリスが、背を見せて立っている。そして次の刹那、アリスの左前腕の真ん中から下が、まるで鋭利な刃物に切りつけられたかのように、スパッと切れて落ちた。
 
 
 
 
 授業を終えた後、隆志は長嘆息しながら教室を後にした。授業が終ったら昼休みに喧嘩をした舞に謝ろうと思っていたのに、さっさと下校されてしまった。

(でもまあ、的場先輩の部屋で人形たちと遊んでるだろうから、後でまた会えるかな)

 そう思いながら、廊下のロッカーで土足に履き替えず、上履きのまま保健室へと――昼休みに、今日の放課後遊ぶと約束した胡蝶の所へと、向かって行く。舞の爪痕の付いた頬の手当てをされて以来、もうすっかり恐怖心が無くなっていた。

(僕と2人で遊ぶって、何して遊ぶのかな。やっぱり純粋な人形だし、髪の毛を梳かして欲しいとか、そういうのかな)

 なんて、勝手に人形というもののイメージを抱いて、胡蝶に可愛らしさを感じた隆志は笑う。
 保健室に入ると虎之助の姿はなく、デスクの端の方に置かれている小さな椅子に胡蝶が俯きがちに座っていた。隆志がにこっと破顔一笑して顔を覗き込むと、胡蝶が徐に顔を上げた。

「お待たせ、胡蝶さん。えーと……まず、どこで遊ぶ?」

「…ここで……」

 と胡蝶の血のような紅の瞳に見つめられた刹那、鉛のように重くなった隆志の身体。手から、教科書やらノートやらが入った合皮製バッグがドサッと重たい音を立てて落ちた。身体を動かそうとするも、微動だにしない。

(――えっ、何…!? 金縛り……!?)

 普段は無表情な胡蝶の顔がぐにゃりと歪み、不気味に笑んだのを見て、隆志はようやく気付く。

(ま、まさか僕は、この人形に……!)

 まんまと騙されていた。この人形に――胡蝶に。今この場で、殺されるのだ。助けを求めて絶叫しようとするが、声帯すら縛られてしまったのか、蚊の鳴くような声しか出て来ない。

(ああ、殺される…! 助けて…誰か…誰かっ……!)

 戦慄する隆志の目前、胡蝶がふわりと浮遊する。

「…遊びましょ…遊びましょ……邪魔者を殺して…遊びましょ……」

 胡蝶が右手を上げれば己の左手が上がり、胡蝶が左手を上げれば己の右手が上がり、まるで鏡に映したかのように操られながら、隆志はふと葉山悠二の本当の死因を察した。ずっと腑に落ちなかった。大型トラックの下敷きにされて全身骨折したとしても、あんなにも人間として不自然な方向に四肢が折り曲がるものだろうかと。それがようやく氷解した。同時に、葉山悠二を殺した本当の犯人も、あの時空になっていた葉山悠二のバッグの中身が何だったのかも、何もかも。

(全ては、この人形――胡蝶だったんだ……!)

 しかし、それが分かった所でどうしようも出来ない己がいる。傀儡になってしまった己の身体。蚊の鳴くような声しか出てこない喉。逃げることは勿論、真実を誰にも伝えることが出来ず、誰にも助けて貰うことが出来ず、もうすぐこの場で殺されるのだ。
 すっと伸ばしてきた胡蝶の右手と、己の左手の指先が触れる。磁器の冷たい感触がした。

「…あなたは邪魔者……。…だから…殺して遊ぶのよ……」

 邪魔者って、一体何の話だ。己は一体、誰の邪魔になっているのか。一瞬考えた隆志だったが、すぐに察した。胡蝶の主――虎之助だと。主の邪魔をしている己を、胡蝶は誅殺しようとしているのだ。それはもしかして、虎之助の命令なのではなかろうか。

(――って、ちょっと待ってくれ…! 僕がいつどこで、越前先生に恨まれるようなことをしたっていうんだ……!?)

 狼狽しながら必死に考える隆志の一方、胡蝶の後方にあった窓が突如破砕した。虎之助のデスクの上に落下したガラス片は鋭利な刃物と化し、次から次へと胡蝶の周りを浮遊し始めた。そして、その内の一つがふと消えたと思った刹那、右耳の傍らで聞こえた鋭い風切り音に、隆志は背筋を凍らせる。
 胡蝶の中から、ふふっと笑い声が聞こえた。

「…怯えて…もっと……」

 怯えた、もっと。怯えながら、隆志は必死に考える。己はいつどこで、虎之助に怨恨を抱かせたのか。それが分かれば、僅かだがこの危機から逃れられる可能性が出て来るような気がした。だが、虎之助と接した時の記憶を必死に巻き戻すものの、分からなかった。だって、殺される程の悔恨を抱かせた記憶が見当たらないのだ。

(何…!? 一体、何…!? もしかして舞の卵焼き食べさせたこと、実は物凄く怒ってるとか…!? だってアレ、冗談抜きで殺人的だし……!)

 今度は隆志の左耳の傍らで、鋭い風切り音が聞こえた。

「…泣いて……」

 泣いた。堪らず涕泣した。でも必死に考える。

(いや待て! あの舞の卵焼きは、人間の胡蝶さんの卵焼きと同じ味だって言ってたし、越前先生が怒ったりする訳がない…! じゃあ、何…!? 何で越前先生は、僕のことを殺そうと思うほど恨んでいる…!? ああ、分からないっ…、分からないよっ……!)

 隆志のブレザーの右肩部分が、スパッと切れた。

「…喘いで……」

 喘いだ。迫る恐怖に小刻みに喘ぎながら、なお必死に考える。

(分からないじゃない、考えるんだっ…! 謝って命乞いしたら、許してくれるかもしれないじゃないかっ…! 考えろ、考えるんだ僕…! 越前先生に恨まれるようなこと、恨まれるようなことっ…! …って、ああっ! もしかして、今日の昼間の……!?)

 ブレザーの左肩部分も、スパッと切れた。

「…悶えて……」

 悶えた。解けない雁字搦めの死の鎖にじわじわと締め上げられて、悶え苦しむ。死に物狂いで、考える。

(今日の昼間の、あのことを怒ってるのか…!? うわ、そうだ、そうなんだ…! だってたしかに僕は『邪魔』をした…、舞にセクハラまがいのことをしていた越前先生の『邪魔』をした…! 加えて、『セクハラ』だなんて憎まれ口も叩いた…! で、でもあれは、越前先生が悪いんじゃないか! ていうか、たったあれだけのことで僕は殺されようとしているのか!? どうなってるんだ、最近の大人は!? 馬鹿じゃないのか!? そんなくだらない理由で殺されるなんて、冗談じゃない!!)

 と激昂するも、相変わらず隆志の身体は微動だにしてくれない。
 胡蝶の中から、再びふふっと笑い声が聞こえた。

「…ああ…気持ち良い……良い子ね……。…さあ……」

 胡蝶の白皙の顔の傍ら、鋭利な刃物と化したガラス片が、差し込む陽光を反射して煌く。そして次の刹那、それは、

「…逝って……!」

 隆志の左前腕の真ん中辺りを、突き抜けて行った。

(越前コノヤロォォォォォォォォォォォォーーーッッッ!!)
 
 
 
 
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