第12話 胡蝶 後編


 4月半ばの、鬼百合学園高校の昼休みのこと。

『越前先生、越前先生、至急職員室までお願いします。越前先生、越前先生、至急職員室までお願いします』

 と校内に流れたアナウンスに、保健室でこれから昼食を取ろうと思っていた虎之助は長嘆息した。蓋を開けかけた弁当箱を閉じ、デスクの傍らに座らせている胡蝶の頭を撫でる。

「ごめん、胡蝶。すぐ戻って来るから」

 と、虎之助は弁当箱を持って保健室を後にした。何の用件で呼び出されたかなんて、職員室に行く前から分かっている。校長を含めた、女教師たちの昼食の席に呼ばれたのだ。呼び出し先は『職員室』なんてアナウンスが流れていたが、正しくは職員室と隣接している『校長室』である。そこにある高級革張りソファーに腰を下ろし、校長や女教師たちに囲まれ、あれやこれやとホスト気分で気を使いながら昼食を取らなければならないのだ。

「ったく、面倒くせーな、もう。何で俺が……」

 と、ぶつぶつと文句を呟く虎之助と擦れ違った男子生徒――1年A組の葉山悠二(はやまゆうじ)は、保健室を覗き込んで誰もいないことを確認するなり、中に忍び込んだ。ベッドゾーンの奥にある虎之助のデスクへと向かって行き、ポケットの中から折りたたんでおいた黒い大きめのバッグを取り出す。そしてその中に、デスクの端に座っていた色白で長い黒髪をしたビスクドール――胡蝶を突っ込み、保健室の中に誰もいないことを再確認してから逃走した。保健室から出た途端にクラスメートの女子生徒と衝突し、上級生の男子生徒の怒号も耳に入って来たが、葉山悠二は止まることも振り返ることもなく逃走し続け、1年A組のロッカーの前で上履きから下履きに履き替えると、学校を飛び出して後にした。鬼百合学園の方を何度か振り返りながら、駅のホームへと駆けて行くその顔は、すっかりしたり顔になっていた。一度立ち止まり、路傍に駐車していた宅配便の大型トラックの影に隠れてバッグの中身――胡蝶の姿を確認する。

「よしよし、ちゃんとあるな。越前の人形は生徒が悪さすると動くだとか、殺されるだとか、妙な噂を聞いたが、やっぱりそんなの嘘じゃねぇか。この間ネットオークションで似たような人形が300万で落札されてたし、さっさと売っぱらって金にしちまおう。頼むぜ、お人形サンよ。学生は遊ぶ金が必要なんだ」

 八重歯を見せて、くくっと笑った葉山悠二。携帯電話を取り出して時刻を確認した後、右手に胡蝶の入ったバッグをぶら下げて再び駅のホームへと向かって駆け出した。現在は12時45分。後2分で電車が来る。それに乗って、とっととずらかってしまおう。
 ――と、思った時のこと。

「えっ……?」

 右手にぶら下げているバッグに違和感を覚えて、葉山悠二はふと立ち止まる。重さ2、3kgはあろうか磁器人形――ビスクドールが入っているはずのバッグの中身が、不意に空気のように軽くなった。まるでバッグの中の人形が、浮いているかのような。

(ま…まさか、そんなわけ……)

 突如戦慄を覚えながら、徐にバッグに顔を傾けていく葉山悠二。バッグが視界に入るや否や、血のような紅の瞳を持つ白面に仰視されていると分かり、息を呑んでバッグを投げ捨てた。アスファルトに叩きつけられることなく浮遊したそれは、中のビスクドール――胡蝶の長い黒髪を撫でるようにするりとアスファルトに落ちた。そして姿を現した浮遊する胡蝶から後退りながら、葉山悠二は深い悔恨に捕らわれる。たかが遊ぶ金欲しさに窃盗なんて、愚かなことをするんじゃなかった。そうすれば僅か15歳という年齢で命を失わずに――殺されずに済んだのに。

(この、人形に……!)

 この、磁器で出来た白皙の肌をし、フリルのあしらわれた白いブラウスとスカートを身に纏い、目の上で前髪を切り揃えられた膝の長さまである緑の黒髪の、血のような紅の瞳を持つ球体関節のビスクドール――胡蝶に。
 死にたくない、まだ死にたくないと必死に震える膝で後退る葉山悠二の眼界に、駅のホームが移る。

(そうだ、今からでも全力で走れば、12時47分発の電車に間に合う…! 逃げろっ…! それに乗って、逃げるんだ……!)

 殺される前に、早く。
 だが、膝に力を入れ走り出そうか寸前、胡蝶の血のような紅の瞳と目が合った葉山悠二は、突然地球の重力が上がったような錯覚に捕らわれた。

「…えっ……!?」

 全身が鉛のように重く、金縛りにあって動けない。尚のこと瞼に三途の川がちらつき、慄然とする。

「――…た…助け…て……誰か…っ……誰かっ……!」

 と必死に助けを疾呼してみるも、喉からやっとの思いで出てきたその言葉は蚊の鳴くような声だった。これでは誰にも気付いて貰えない。仙台市内ならまだしも、外れにある田舎のせいか人影も見当たらない。今この場にいるのは己と、目前1メートル先に浮遊する胡蝶のみ。確信するは、死出の旅。

「帰して……?」

 そう胡蝶の中から聞こえて来た囁くような声はその外見よりも少し幼く、同じくらいの――高校生くらいの少女の声だった。

「帰して……?」

 と胡蝶が顔を右に傾けると、鏡に映したかのように葉山悠二の顔が左に傾いた。

「虎之助のところへ……帰して……?」

 と胡蝶が顔を左に傾けると、葉山悠二の顔が右に傾く。胡蝶が両腕を広げれば己の両腕も広がり、胡蝶が指を動かせば己の指も動き、まるで傀儡のように操られる己の身体をどうすることも出来ず、葉山悠二はただただ戦慄を走らせる。胡蝶の動きに合わせて己の広げている両手が、両足が、ゆっくりと外向きに捩れ始め、恐怖に涕泣しながら声を引き絞って命乞いをする。

「――あっ……あっ…あああっ……! や…やめっ……止めてくれ…頼むっ……! こ…殺さないでくれ……!」

 だが虚しく、次の刹那のこと。胡蝶がその小さな手と足を、球体になっている関節の上で外向きにくるくると連続回転させると、瞬く間に骨の折れる音と共に葉山悠二の両腕が捻り上がり、諸膝と爪先が真後ろを向き、人間として不自然な方向に四肢を折り曲げてアスファルトに倒れこんだ。四肢に走る激痛に呻吟する葉山悠二を、無表情に冷然と俯瞰する胡蝶が、後方へと首を回していく。

「た…のむ……殺さないで…殺さな――」

 最後の命乞い虚しく、その言葉を遮るように首が180度回転した瞬間、葉山悠二の意識が途絶えた。12時47分発の電車が、発車するとほぼ同時のことだった。
 
 
 
 
 翌日。葉山悠二の葬儀には、遺族の他に、鬼百合学園高校の教師や隆志・舞などのクラスメート、葉山悠二の中学校の同級生、それから大輝などが参列した。
 歔欷や悲痛な慟哭の中から、近くにいるクラスメートの女子生徒のささめく声が隆志の耳に聞えてくる。

「ねえ、聞いた? 葉山君の死亡原因」

「聞いた。宅配便の大型トラックに轢かれて、全身骨折と内臓破裂でしょ?」

「そう。でもね、遅刻常習犯で、死体第一発見者のアタシの部活の先輩が言ってたんだけど……」

「うん?」

「葉山君を轢いて踏み潰してたその大型トラック、無人だったらしいよ」

「えぇ? まさか! 運転手がビックリして逃げちゃったとかじゃなくて?」

「ううん。その宅配便の運転手、ちゃんと近くのマンションに荷物届けに行ってた証拠があるし、車のエンジンもちゃんと切ってたって」

「じゃあ、トラックが勝手に動いたってこと…!? ヤダ、こわーいっ……!」

 隆志は大きく咳払いをして女子生徒を黙らせると、傍らで慄然としている舞の手を握った。無理もない。クラスメートが亡くなったというだけでもショックなのに、事故現場を目の当たりにしてしまったのだから。
 昨日保健室で絹を裂くような悲鳴を聞いた後、隆志と舞、大輝は校舎から飛び出して、野次馬の生徒たちと共に事故現場に駆けつけた。クラスメートが大型トラックに踏み潰されているその姿は、隆志とて衝撃だった。近くには葉山悠二が持っていた黒いバッグが落ちていたが、その中身は空になっていた。

(きっと越前先生の人形――胡蝶がやったんだ…! 葉山君を殺して、逃げたんだ……!)

 そう思い戦慄して立ち尽くす隆志と、隆志の肩に顔を埋めて泣いている舞の手を引き、大輝は学校へ――保健室へ戻った。するとそこのデスクには虎之助がいて、その膝の上には胡蝶が座っていた。隆志が初めて見る胡蝶は、大輝が言っていた通りたしかに整った容貌をしていたし、磁器で出来た白皙の肌は透けるような美しさだった。だが長すぎる黒髪と、まるで血のような紅の瞳が酷く気味が悪かった。また、舞の従姉妹で虎之助の恋人だった、虫一匹殺せないほど優しかったという胡蝶に似ているというのならば、アリスのように優しく微笑んだ表情をしているのかと勝手に想像していたが、それは冷然と見えるほどの無表情だった。

「外が騒がしいな、どうかしたのか?」

 そう問うて来た虎之助に大輝が答えてやった後、隆志は問うた。

「さっきは保健室に胡蝶さんがいなかったんですけど、どこに行っていたんですか?」

 すると虎之助は笑顔でこう答えた。

「俺が家に忘れ物したからな、取りに行ってもらってたんだ」

 それを聞いて舞は安堵したようだったが、隆志は疑心を抱いた。だって、葉山悠二のバッグの中身はどこに行った? 昨日保健室から出てきた時は、たしかに何かが入っていたのに。単純にロッカー等に入れたのかもしれないが、逃げるように走り去っていった彼の姿を思い出すと、そのまま学校の外に持ち出したように思えて仕方がない。もちろんそのバッグの中身を見たわけではないから、虎之助の言葉を否定することは出来ないのだが、どうも疑問は氷解しそうにもない。
 そんな隆志の胸中を察したのか、葉山悠二の葬儀からアパートの駐車場まで帰って来るなり、大輝がこう言った。

「なあ、隆志。兄貴の言葉、信じてやってくれよ。胡蝶を疑わないでやってくれよ」

「……的場先輩は、葉山君のバッグの中身は何だったと思いますか?」

「分かんない。けど、胡蝶じゃない」

「保健室って、他に盗むようなものありますか?」

「あるだろ? 怪我した時の薬とか」

「そんなもの盗むでしょうか」

「薬買えないほど貧しかったかもしんねーじゃん。鬼百合学園って私立だから学費高いし」

「そうですけど……」

「それか、生理用ナプキンかも。ほら、思春期の男だし」

「的場先輩も欲しいとか思ってんですか?」

「欲しいとは言わないけど、一時はどういうものか実物見てみたかった――って、何言わせんだよおまえ」と、隆志の胸をどついた後、大輝が続ける。「つか、葉山が保健室から何か盗んだって決まったわけじゃねーじゃん。盗むとこ見たわけじゃあるまいし」

「まあ、そうなんですけど……」

「今回のことは、事故だ。胡蝶の仕業じゃない。あんまり考え込むなよ。いいな?」

「……分かりました」

 と隆志が渋々頷くと、大輝が話を切り替えた。

「なあ、隆志。クラスメートがこんなことになっちまった後で、あんまり乗り気しないかもしんねぇけどさ?」

「はい」

「今週末、お前とアリス、舞ちゃんとアリサ、おれと愛香・大河で、花見に行かないか? ぱーっと、花見パーティー♪ 今週末、桜が満開らしいんだ」

「本当に乗り気しないお目出度い話ですね」

「ごめん」と苦笑すると、大輝は「でも」と続けた。「花見は愛香の夢の1つだから、どうしても叶えてやりたいんだ……去年は出来なかったし」

「花見は愛香さんの夢の1つ?」

 と隆志が鸚鵡返しに問うと、大輝が頷いて続けた。

「先日愛香が、この世にはまだまだやってみたいことが沢山あるって言ってただろ? その内の1つが『花見』。生前の愛香は桜の花粉症で、花見出来なかったんだってさ。だから、愛香はアリス・アリサとも仲良いし、人数は多い方が楽しいから、付き合ってくれると嬉しいんだけど?」

 そういうことならばと隆志が承諾すると、大輝が「サンキュ」と破顔一笑した。しかしそれはすぐに失せてしまい、隆志が小首を傾げてどうしたのかと問うと、大輝は寂しそうな微笑を浮かべてこう答えた。

「いや、たださ……、愛香の夢を1つ1つ叶えるごとに、1歩1歩近付いて行ってるんだなあと思って」

「何にですか?」

「おれとあいつら――愛香・大河の、別れの時……」
 
 
 
 
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